大変恐縮ですが宣伝を。今月末に神戸で映像つきライブを致します。4年前バンコク中華街の屋台でコブラの生血で義兄弟の盃を交わした三人によるムエタイルール三分五ラウンド!最寄の方は是非お越し下さい。損はさせません!
■ペンとバラ
2007/11/28(水) open18:30/start19:30~20:00
神戸【BIG APPLE】・・・JR/阪神『元町』駅よりトアロード上る徒歩10分、山本通り3丁目バス停前
078-251-7049 神戸市中央区山本通3-14-14 トーアハイツB1
前売\2300/当日\2500(+1drink)
●出演:小倉恒夫(映像)
島田篤(piano,etc)
ナカガワキュウヤ(bass)
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自分が小学生のころは先代の引田天候の大掛かりな脱出マジックが大人気であった。トランシーバー握り締めて「応答願います!応答願います!大変です天候さんからの連絡が途絶えました!」と緊張感を煽るレポーターを「事故があったら放送出来るわけ無いやん。」と覚めてみていたイヤな小学生だった私・・・。今じゃマジックはオネエちゃんを口説く小道具みたいな扱い、もしくは楽しいイリュージョンもんだが当時のマジックはちょっとおどろおどろしかった。マジックでなく手品、イリュージョンでなく奇術という縦文字感覚といいますか、適度なインチキ臭さといいますか。そんな手品・奇術の世界の男と男の確執を世紀末ロンドンを舞台に描いた異色作が「プレステージ」。プレステージとはマジックの大オチの意だそうで、いわゆる起こるはずの無い現象が起こって「おお~」「うそ~」とため息が漏れる瞬間のこと。本作の字幕では「偉業」となっていた。元は同門だった二人のマジシャンが本番中の事故で一方の妻が死亡したことで反目しあい、私生活では命を狙いあい舞台上ではお互いのタネを暴露しあうという24時間営業中の抗争劇を繰り広げると言うストーリー。二人のマジックはお互いに瀕死の重傷を負わせあいながらドンドンエスカレート。ついには人間の瞬間移動という大ネタを巡って殺人事件に発展するが・・・。世紀末ロンドンの奇術師と言えば脱出王フィデイーニ(オカルト全盛の当時手品によるオカルト暴きで活躍した)であるが、今作のオチは御伽噺といいますかホラ話といいますか、平たく言うと全然マジックじゃなくてオカルトそのもの。でそのトリックは当時実在のマッドサイエンテイストであるニコラ・テスラの発明品という設定なのだ!面白い思いつきではあるんだがなんせトリックそのものが余りにリアリティが無くて・・・。
女房の恨みで始まったはずの確執が、二人の手品バカのジェラシーのぶつかり合いでエスカレートし女も金もどうでも良くなっていく様子は面白いのであるが、謎解きもんとしてはちょっと物足りないかなあ。今作の監督は「メメント」の衝撃はすっかり遠くなったクリストファー・ノーラン。「バットマン・ビギンズ」に続いて堂々たる演出で安定感バツグンだがこんなに落ち着いてていいのかしら。まテーマ自体は「メメント」に通じるもんがありますが。二人のマジシャンはヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベール。ベールの役者バカな狂気がうまくはまっておりました。で二人の後見人的アシスタント役がマイケル・ケイン。この人出しときゃイギリスっぽいだろというキャステイングではあるがやっぱりいい。二人翻弄されるスカーレット・ヨハンソンやテスラ役のデビッド・ボウイは正直誰でも良いような役でした。
猪木が言うところの「男のジェラシー」についての映画としてみると面白いでしょうか。藤波と長州か、それとも前田と高田か・・・。自分にとってはエンターテイナーの男の嫉妬を巡る部分が、謎解きより面白かったです。
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「パッチギ!LOVE&PEACE」には相当困惑しましたが、続けて見た「監督・ばんざい!」には困惑を通り越してゲッソリ。たけしさんはもうやる気が無いなら無理して映画を撮る必要は無いのでは・・・。本作は「みんな~やってるか!」の系譜に連なるいわゆるバカ映画だと思うのですが、「TAKESHIS’」に続いて「映画作りについての映画」でもあり、たけしさんが暖めていたであろうシーンや映画の企画が断片的に出てきて「でも撮れない」という自己言及が連続する構成。がこれがあまりにも取りとめも無く、集中力も感じられない工夫の無いシーンの羅列で・・・。Jホラー風や小津安二郎風の劇中映画もテレビのコントレベルの寂しい画面でパロデイとしても笑えず。昭和映画も「三丁目の夕日」に対する皮肉なんだろうけど、ただそれだけ。詐欺師親子のギャグも全く笑えないし、堂々巡りの構成も単にアイデア枯れにしか見えません。要はアイデアをまとめる気力が減退してると言う印象です。「TAKESHIS’」ではダウナーな内省が興味深く映像もアイデア豊富だったのですが、今作はとにかく画面が寂しい。「映画が撮れない」というのが単なる本音にしか見えず、「撮れないなら無理して撮らなくてもいいのに」と思っちゃいました。実際別に毎年新作撮る必要はないと思います。じっくりアイデアを固めて渾身の一作を撮って欲しいのですが。アウトサイダーからの日本映画へのツッコミとして機能していたたけし映画ですが、自転車操業で新作を連発していてもかつてのインパクトは望めないと思うのですが。
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世の中には稀になんでこんな映画が出来てしまったのか?と思うような失敗作がある。つまらない映画、自分の趣味嗜好と一致しない映画、ストーリーやテーマがどう考えても間違ってる映画、役者の演技や撮影が低レベルの映画、というような分析可能な原因を超越して、余りの支離滅裂さに呆然とする映画。沢山のお金が動き、プロのスタッフ・キャストが結集して作られたはずなのに「誰も途中で止めるやつは居なかったのか?」と言いたくなるような感想しか浮かばないそんな映画の系譜に入る映画を残念ながら見てしまった。傑作だった「パッチギ!」の続編「パッチギ! ラブ&ピース」である。俗に「続編、パート2モノに傑作なし」なんて言われますが本作は主要キャストこそ交代したものの監督は井筒監督が続投。パート1と何でここまで違う出来になったのやら。お話は前作から6年後の1974年が舞台。東京に移住したアンソンとキョンジャの兄妹のその後を描くのであるが、続編映画の例外的傑作「ゴッドファーザー2」方式を採用。兄妹の父親の物語と現代が交互に描かれる構成。だが脚本がエピソードの羅列でブツ切れなうえ、編集もフェードアウトばかりで全然リズムが無いので映画は一向に走り出さず各駅停車を繰り返してラストまでついに盛り上がりもなし。モンタージュや音を使った映画的な仕掛けも全然なくて説教臭い脚本の朗読を聞かされてるよう。肝心の差別や戦争を語るメッセージは教育映画みたいだし、とってつけたように流行りの難病モノは出てくるし、昭和の風俗の再現に血道を上げてるが全然ストーリーと関連してこないし(別に現代が舞台でも全然いい話なのだ)、アンソンは悪漢のようで単なる粗暴な切れやすいオッサンにしか見えないし、キョンジャもなんでイヤなプロデューサーが仕切る陳腐な特攻隊映画に拘るのか全く不明。「パッチギ!」は北朝鮮批判一色の世の中に風穴を開けるような爽快さがあったが、今作はひたすら面白くないアジ演説を聞かされてるような息苦しい困った映画でした。前作との差は原作があるかないかの差なのかなー?映画が終わったあと会場の電気がついたときの観客の雰囲気はパート1とは全く違って熱がカケラもなくてそれが印象的でした。パート1の時は感想を熱く語ってる人がいっぱい居ましたが、今回は話し声すら余り聞こえない。事前の宣伝は毎日テレビで見かけましたが、その後熱のこもった感想も聞かない。観客は正直なもんであります。
ただひとつキョンジャをもてあそぶヤリチン俳優役の西島秀俊の演技はバツグンでした!あと私が大好きな名チャンピオン徳山昌守さんもチラッと出てました。
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いまじゃゆとり教育や学力の低下がやたらと問題視されてるが、私らが子供の頃は「受験地獄」だなんだと知識偏重・暗記偏重の受験勉強がやたらと槍玉に上がっていたもんである。まあ人間の社会の方針なんて所詮その程度で移ろい行くもんではあるが。そんな時代にはいわゆる「教育ママ」や「スパルタ教育」なんて単語で詰め込み教育がやたらと批判されていた。いまじゃ「スパルタ教育」と言ったって意味が解るヤングはそうはいまい。スパルタ教育の語源はギリシャの都市国家スパルタのキビシー青少年育成方針から来ているそうで、まず新生児の段階で虚弱児を遺棄するは当たり前!逆赤ちゃんポスト!生きること許された男子も7歳になると家庭から離されて集団生活(ヤマギシ会か?)の中で軍事訓練を叩き込まれなければ成人と認められなかったのだという。そんなスパルタを歴史に残る存在にしたのがテルモビュライの戦い。紀元前480年にギリシャに遠征してきた200万ペルシャ兵をわずか300人のスパルタ兵がで3日間足止めしたという戦闘でスパルタ兵の勇猛さは伝説となった。ペルシャ兵の数が200万と言うのはギリシャ側からの尾ヒレのついた見解で実際には多くとも10万人以下であったそうだが、何にせよ圧倒的不利の中でアジアの野蛮から、高潔なギリシャの精神を勇敢に守ったというお話はギリシャの人々にたいそうなインパクトを与えたようである。ギリシャ・ローマが舞台の歴史アクション、いわゆるサンダルもんに革新的なCGで殴りこむ意欲作「300」の題材がこのテルモビュライの戦闘。原作は「シン・シティ」でおなじみのコミック作家フランク・ミラーのグラフィック・ノベル(ってなに?「少年ケニヤ」みたいなもんか?)だそうで、なるほど内容は「シン・シティ」のようにマチズモ全開。主人公のレオニダス王は世襲で王位を継承したボンボンだが戦争では前線に立つ勇気溢れる男の中の男であり、兵士達の信望も厚い。スパルタの政治体制は議会政治で王も一議員に過ぎず、神託を得る権限を持っている神官が隠然たる影響力を持っている。この映画で神官が神託を得る儀式がなんともハチャメチャ。日本式の亀の甲羅を焼いて割れ方で…というような呑気さは微塵も無く、なんと生娘に麻薬を飲ませてヘロヘロにした上で裸に剥いて集団でオサワリしながら娘の口から切れ切れに漏れてくるうわごとを勝手に神官が翻訳するというシステムを採用しているのだ。なんと解りやすい腐敗っぷり。ペルシャから侵略に際して降伏を迫る使者が到来するが政治家や神官、同盟関係の他の都市国家は揃いも揃ってペルシャの強大な軍事力にビビってか、それとも命が惜しいのか及び腰。「ことを構えるのは無謀じゃけん」「今手打ちの道をさぐっとるからそう熱くなりなさんなや」「ちょっとくらいシマかシノギをくれてやりゃええじゃないの」と腰のひけた意見ばかりでついに王はブチキレて使者を勝手にゴミの穴(井戸?)に蹴りこみ、「狙うもんの方が狙われるもんより強いんじゃけん」とばかり近衛兵300人を連れてペルシャ軍を迎え撃ちに出かけてしまう。でここから血みどろの殺戮が延々と続き、スパルタ側はホモ的結合で結ばれた屈強な王と戦士が一体となって切って切って切りまくり大活躍するのに対して、ペルシャ側は王は無能で作戦はデタラメ、戦士は腰抜けで秘密兵器は粗暴な巨人や象や犀とまるで見世物小屋レベル、といいとこなしのポンコツぶり。待遇に差をつけすぎだよと思ったら、実際にペルシャの末裔であるイランの政府が抗議の声明を出してるんだそうで、まそりゃ当然だろうと思われるが、奇怪なビジュアルの完成度はさすが。わけても敵役クセルクセス王は特にインパクト絶大で、筋骨隆々で全身ピアスとタトゥーだらけの彼が奴隷に担がせた巨大な御輿に乗って移動するシーンのわかりやすい悪役ぶりは完璧。一応史実を元にしていながら、こんだけ善悪の色分けがハッキリしてる映画も珍しい。ま史実と相当に違うシーンが多くて、歴史家からは悪影響を心配する声も出てるそうですが、たしかにこれをマジメな歴史映画だと誤解する人がいたら有害ですな。巨大な軍事力に不利とわかって立ち向かう人々をここまで称揚するなら、今イラクやアフガンで世界一強大な米軍に立ち向かうゲリラ・テロリストと呼ばれるの皆さんも称えてあげたらいいんじゃないの?私がそれより問題に感じたのが徹底してマチズモが称揚される一方で、身体障害者が卑怯な裏切り者として設定されてるところ。大真面目にやってるんでしょうか?
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最近のアメコミ映画はどーも主人公が不必要に内省的といいますか、「あれこれと身辺の雑事で悩んだ方が人間的で、観客にとって親しみが湧く」という間違った分析に基づいた困った登場人物が多い気が致します。延々と呑気な痴話喧嘩みたいな内輪もめばかりだった「ファンタスティック4」、死んだ女を愛した二人の中年の心理ドラマになってしまった「X-メン」など、脳ミソは家においてひと時の興奮を求めて映画館に足を運んだはずの人たちを当惑させる映画群。それが行き過ぎて困った昼ドラみたいになってしまった「スーパーマン リターンズ」が最近じゃ失敗作の代表例か。そんな負の連鎖がついに近年のアメコミ映画最高の成功例だった「スパイダーマン」シリーズにまで及んでしまった。「スパイダーマン3」のピーター=スパイダーマンは全編悩みまくり。恋人、家族、友人、職場の人間関係全てがプレッシャーとなりピーターを苛む。そんなピーター発ピーター行きの小さな揉め事が雪ダルマ式にエスカレートして大パニックに見舞われて逃げ惑うニューヨークの市民はホントいい迷惑。昔「ウルトラマンが倒れこんだ建物に住んでる人はどうなるねん!」というお馴染みのツッコミがありましたが、今作は正にピーターが元凶のパニックばかりでヒーローの存在意義自体がおかしくなってるような。これも「悩み苦しむ主人公を盛り込まねば」という方針の結果なら正に本末転倒。自分にとってはアメコミ映画は爽快なホラ話のほうが好みなんですが。サンドマンのエピソードがVFXもキャラクターも良かったので、個人的には今作はここに焦点して欲しかったです。
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金も名誉も手に入れたハリウッドスターが次の段階で出たくなるのは、自分の演技力を証明できるような映画、社会的メッセージを含んだ問題提起的な映画であります。テレンス・マリックの「シン・レッド・ライン」は本当にどうでもいいチョイ役まで大スターだったし、「マルコビッチの穴」も美男美女スターがわざわざブサイクな一般人役を喜んでやるというねじれたキャステイング。去年のポール・ハギスの「クラッシュ」も庶民のイザコザを描いた陰気な映画でしたがハリウッドスターがこぞって出たがったというじゃないですか。いわゆるジャリ向けカップル向けのポンチ映画では満たされない創作の喜びを演者に与えるような映画の需要も未だにちゃーんとあるわけですな。そんな「スターが出たがる映画」作家の新しい第一人者がアレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ監督(以下 AGI 保険会社のようだ)。彼のデヴュー作「アモーレス・ペレス」を見たのはエミネム主演の「8マイル」の撮影ロドリゴ・プリエトさんが「アモーレス・ペレス」のカメラマン(他に「25時」「アレキサンダー」「ブロークバック・マウンテン」と趣味の良すぎるチョイスが光る)だと聞き及んだからでしたが、見たらぶっ飛びました。ホームレスと貧乏人とアッパーミドルの三つの階層を犬と言うキーワードで並行的に描きながらアクシデントで交錯させていくダイナミックな展開。凄惨な暴力とペットへの愛情の不思議な共存。ナヨナヨしたところの無い豪快な死生観も新鮮だし、映像感覚もシャープでタイト。物凄い本格的な才気の登場を感じさせる大傑作でした。AGI先生はこの一作でメキシコを飛び出してハリウッド進出し、デルトロ、ショーン・ペン、ナオミ“アンチエイジング”ワッツとスター総出演の期待作「21グラム」を満を持して世に問うた。もののこれは私には明らかに失速に見えました。アイデアは「アモーレス・ペレス」の焼き直しだし、ストーリーも構成がゆるく詠嘆的でどうもクールネスに乏しい。底の抜けたストーリーも前向きな破綻と言うより、まとまり切らずに思わせぶりに見える範囲で投げ出したという感じで、とにかく感想が浮かばない映画でありました。ここで大分私のAGI熱は冷めたのであるが、三年振りの新作「バベル」はなんと日本が舞台になり出演した日本人の女優さんがアカデミーにノミネーションされていると言うことでワイドショーでまで取り上げられる話題ぶりとあってさすがに興味が湧いてきた。しかも公開直後観客がポケモン事件ばりのフラッシュ酔いを起こすという三面記事まで提供して話題宣伝は万全。が、感想は結論から言うと全く期待はずれであった。今作は中東と東アジアと北米の何のゆかりも無いはずの人々の運命が交錯しあって悲劇へと至ると言うお話なのだがこれがまたしても全く「アモーレスペレス」と同工異曲。メキシコシティー内で完結してて充分面白かったお話をわざわざ世界規模にスケールアップしただけと言うガッカリぶり。三つのエピソードで一番精彩を放っているのがアメリカとメキシコを舞台にした北米編だという事実で試みの無駄さが際立つ。中東編はモロッコに観光に行ったアメリカ人が主人公で舞台設定は単なる思わせぶりな借景に過ぎず。大体ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットというリアリティゼロの美男美女の夫婦愛なんて心底興味が湧きません。で肝心の日本編は「バベルの塔はバブルの負の遺産である高層マンションだった」という脱力感最高のオチ。日本といえばケツが見えそうな女子高生と高層マンションじゃ観光客の感想と変わんねえじゃねえか。「ハリウッドでやってるが俺の映画はお子様ランチじゃないぜ」という気合は、見事カラ回り。ベンダースの「夢の涯てまでも」を思い出させる諸国漫遊思わせぶり文芸大作でした。この人の特性はもっと小さい映画でこそ発揮されると思うのですが。
ところで問題の失神者続出シーンは全くどうってこと無いシーンでした。その辺も期待ハズレでした。あーあ。
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ウガンダのアミン大統領といえば、なぜか日本では康芳夫さんが猪木の異種格闘技戦の対戦相手に指名したことでプロレスファンには知られた存在ですが、勿論世界的には大量粛清をしたアフリカの独裁者として有名であります。ホラー映画ブームの80年代には彼の伝記映画「食人大統領アミン」なんてそのものズバリなタイトルの映画も日本で公開されました。そんな血も凍る恐怖の暴君アミン大統領を、なぜか気のいいゲイ役でお馴染みのニコニコデブくん名優フォレスト・ウイテカーが熱演して映画賞を総舐めにしたのが「ラストキング・オブ・スコットランド」という長ったらしい名前の映画。この映画の主人公はしかしアミンさんではなく、スコットランド出身の青年医師ニコラスくん。代々医者という名家のボンボンだが強権的な父親への反発や独立志向、ワカもん特有の冒険心などモロモロの理由で医学校を出た直後に僻地医療を志願する。家族での夕食を終え戻った自室で地球儀をクルクル回して指が押さえた国に行くと決めるが一回目の試行で出たのはカナダ、でもう一回回して指したウガンダへ出立というシーンの作りがうまいなあ。ニコラス君は飛行機とバスを乗り継いでウガンダ奥地の任地へと向かうが、早速道中現地の女性をナンパして女癖の悪さも披露。この子大丈夫かいな?という心配は映画が進むにつれてドンドン現実化していく。任地では先輩のベテラン白人医師がすでに仕事中。医者修行に精出すニコラス君だがまたしても持ち前の女癖で先輩医師のカミさんに手を出してしまう。冒険気分の若造と、僻地医療のベテランで人格者の先輩とでは土台意識も全く違うのはわかっているが、なんせナンパ師で鳴らす彼に奥さんも困惑気味。とそんなある日クーデターで政権を掌握したアミン大統領が遊説で勤務地にやってくる。熱狂する現地人の様子に興奮するニコラス君だが当地でのクーデターの日常茶飯ぶりを知悉してる先輩夫婦は至ってク-ル。とそんな遊説の帰り道アミンさんの乗る車が水牛と衝突。そこに通りかかったニコラス君は肩を脱臼してパニック状態のアミンさんをたちどころに治療して知己を得る。僻地医療の現実にいささか退屈してた上に女性問題まであって田舎暮らしとオサラバしたかったニコラス君はまんまとアミンさんの主治医に納まり、初期の志はサッサと放り出して首都に移住。黒人ばかりの側近の中で異例の外国人にして白人のスタッフとなる。田舎では熱狂的に歓迎されてニコラス君がカリスマを感じたアミンさんだが、暴力革命で政権を奪取したところで政権の基盤は脆弱そのもので裏切りや政変の恐怖から疑心暗鬼の毎日。ウガンダの旧宗主国はイギリスでイギリス人外交官がああだこうだと政権運営に意見をしてくるのも頭痛の種。イギリス人を敵視するスコットランド人ニコラス君はアミン大統領の鬱屈に深く感情移入しますます二人の仲は親密になっていく。おしゃれな家や高級外車も与えられ有頂天のニコラス君だがアミンの政治的立場が不安定になるにつれ彼の立場も危うくなっていく。政敵による復讐を恐れる余り側近の言いなりに行動するアミンはやがて政敵への凄まじい迫害で先進国のマスコミから批判されるようになる。ニコラスの進言で釈明の会見を開き白人ジャーナリストの前で快活に振舞うアミンを演じるウイテカーの演技は圧巻!虐殺を指令する冷酷さと冗談口で記者を魅了する人間的魅力が並立する独裁者のカリスマと狂気をこんな風に描いたシーンは希有。内政で常に暗殺の不安が絶えない上に、先進国のマスコミが虐殺疑惑を向けたことで国際的にも孤立し、内政も外交も末期的なアミンに汚名を挽回する千載一遇のチャンスが訪れる。パレスチナゲリラにハイジャックされた航空機がウガンダの空港への着陸を求め、国際的孤立で八方塞のアミンは自己宣伝にこの事件を利用しようとする。一方ニコラスはこの機に乗じて国外への脱出を試みるのだが…。ラスト近くの空港のシーンは近年最高のホラーで、ニコラス君の好奇心や虚栄心は余りにも高い代償を払うことになる。冒険気分の白人青年と弱肉強食の政争に明け暮れる独裁者の出会いが、土台いつまでも平和なはずは無いのであるが…。植民地政策や独裁政治への批判的洞察という普遍的なテーマとアミンという個人の魅力と狂気というドキュメント性を野心的な白人青年の受難劇というドラマの中に折衷してぶち込み、尚且つ恐怖映画として抜群に怖いという大変才気溢れる映画でした。情報だけではマジメな良心作かと誤解されるような作品ですが、撮影も演出も躍動感があり娯楽性充分です。
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かつてヨーロッパの映画がハリウッド映画以上に人気があった時代がありました。今でもオールドファンには名画=ヨーロッパというイメージは頑としてありますね。しかし最近ではヨーロッパの映画産業はすっかり衰退し、監督連中も出世作をモノにすると雪崩を打ってハリウッドに拠点を移していく。ハルストレム(スエーデン)、アメナーバル(スペイン)、ガイ・リッチー、ダニー・ボイル、スコット兄弟、ギリアム(イギリス)、ジュネ+キャロ(フランス)、ペーターゼン(ドイツ)。テレビ+マンガ育ちのオタクばかりのアメリカ人監督には不得手な大人向けのメロドラマや感動モノといういわゆる『良心作』を担当することが多いヨーロッパ出身の監督たちの中で、極めて異質な存在感を示していたのがオランダ出身の我らがポール・バーホーベン。私の彼との出会いは大学生の時に見た「ロボコップ」。当時出入りしてた劇団の人に「最近面白かった映画は?」と聞かれて「ロボコップです!」と元気良く答えた時の冷ややかな反応は忘れられない。ジャリ向けのポンチ映画かと誤解を受けていた「ロボコップ」は、実のところ警察の民営化によりスラム化した近未来都市を舞台にした警告的なお話。大企業に支配されて荒廃しきった街に、半殺しにされてサイボーグ化した制服警官マーフィーがロボコップとして降臨。マーフィーは記憶喪失の上体を勝手にガンダムみたいに改造されて葛藤するが、遍歴の果てに人間としての記憶を取り戻し、凶悪犯罪者と結託して防犯を利権化しようと目論んでいるワル連中を皆殺しにするという極めて今日的テーマを含んだハードバイオレンスSFでありました。ハリウッド上陸一発目に低予算のゲテモノ映画で大ヒットを記録し人気監督となったバーホーベン大先生は世間的には「氷の微笑」が代表作なのでしょうが、「スターシップ・トゥルーパーズ」「インビジブル」も大傑作。演出はアップテンポでありながら凡百のMTV出身監督とは違う職人的な手腕を持っており、どの作品もクライマックスは必ずアドレナリン全開で暴走する。なおかつビジュアル面のチャレンジ精神も旺盛で「スターシップ…」でのフィル・ティペットによるバグ軍団や「インビジブル」での透明化描写など、生理的嫌悪感を惹起するVFXシーンを作らせたら世界一。最新テクノロジーを駆使して人をイヤな気分にさせることに全精力を傾けるゆがんだ情熱が嬉しくなるじゃないの。のみならず「ロボコップ」以降は主人公をわざわざ観客にイヤがられるような性格に設定するのが毎度で、どころか登場人物全員が私利私欲だけを追うダメ人間ばかりという「ショーガール」なんて映画までありました。「ショーガール」でラジー賞を受けたバーホーベンはアカデミー賞と同日に行われるセレモニーに出席しスピーチまでしたと言うんだから完璧!と、充分好き勝手してるように見えるバーホーベン先生だがああ見えて実は様々な創作的ストレスを感じていたようで、なんとハリウッドと決別してお国に帰ってしまった。これからは制約の無い環境で好き勝手やるぜ!とばかりに放たれた待望の新作が「ブラックブック」。勿論期待にたがわぬ大傑作である。舞台はナチス占領下のオランダ。主人公のユダヤ美女エリスは占領前は人気歌手だったが、ナチスの迫害を逃れて疎開先の田舎家でアンネの日記のような隠し部屋生活を送っている。ところがある日突然連合軍の爆撃でかくれ家が木っ端微塵(いきなりのショックシーン)。仕方なく田舎で知り合った青年の家に身を寄せる。もとより美人で世渡り上手と思しきエリスはビニールハウスでレコードかけていちゃついたりして、爆撃で死んだに違いないホームステイ先の一家には無関心でバーホーベンキャラの系譜をキッチリついでいる。と夜闇に一台の車のライトが浮かぶ。すわユダヤ人狩りか!とレコード消して身構えるも、車から降りた男はレジスタンスの使者を名乗る。まもなくナチスが来てユダヤ人は連行される、その前に船で非占領地域に脱出させるというこの男信用していいのか?だがどの道隠れ家も無い身のエリスはなけなしの財産をもってこの男の計画に乗ることに。公証人に預けていた財産を受け取ったエリスが、船が出るという場所に行くとそこには沢山の富裕ユダヤ人家族が集められている。エリスはそこで逃亡の為に生き別れていた弟と両親に再会し、無事を喜び合う。それぞれ財産を現金や貴金属に換えて身に付けた一行はボロ船に乗せられる。夜闇にまぎれて水路で非占領地域への脱出するという手はずのよう、だったが突然ナチスの警備隊の奇襲に遭い一行は機銃掃射で皆殺し。身につけていた財産も全て奪われる。だがエリスは間一髪河に飛び込んで岸に這い登りかろうじて命をつなぐ。悪運強く生き延びたエリスはしかし非占領地域には逃げられずたまたま拾われたレジスタンスの協力でハーグに送り返される。身分を隠してレジスタンスの頭目が経営する食堂で働くエリスはやがて周囲に請われるとナチへの復讐心も手伝って反ナチス活動へと身を投じて行く。そんなスパイ活動中列車内でたまたまナチの将校と顔見知りになったエリスは、彼に近付いて囚われたレジスタンスの同士の脱出につながる情報を色仕掛けで聞き出すという危険な密命を受ける。根が遊び人でサバけてる上、家族も財産も失って怖いもんなしのエリスは女の武器を使うことを承諾。潜入の為に髪と同じ金色にマン毛を染めるエリスが同士と鏡越しに会話するシーンの絡みつくようなカメラワークはド変態!やる気満々で件の将校に接近すると気のいいオッサンはイチコロ。男なんてチョロいもんねとベッドインするも甘かったのはエリスの方。うますぎる話に疑いを持った将校からの詰問でユダヤ人だとバレてしまうが、実は彼も連合国の爆撃で家族を亡くした似たもの同士と判明。立場を超えて愛し合う二人の恋の成り行きだけでも充分危険だが、その上ナチス内部の権力闘争と、レジスタンス対ナチスの情報戦も絡み一体誰が悪なのかさっぱり解らなくなるバーホーベンイズム全開の息もつかせぬサスペンスが連発。エリスは恋と任務の板挟みで身動き取れなくなり罠にはめられて、抜き差しならない苦境へと落ちていく。やっと戦争が終っても今度はナチ協力者として迫害され、愛する彼は戦争犯罪人のお尋ね者。この辺は日本の終戦時と同じで一夜にして価値観が変わるという世界で、ご丁寧に子供たちがGIに「ギブミーチョコレート!」するシーンまである。彼女は戦中も戦後も理不尽な迫害を受け続け、あらゆる局面で精神と肉体をさいなまれまくるが、しかしどんなに汚れても(文字通り頭からウンコを被っても)立ち上がり生きることをあきらめない。過去の「ショーガール」や「氷の微笑」のデタラメにたくましいヒロイン像を五割増ししたかのようなパワフルさ。映画の大オチである「誰がそもそも最初に彼女たちをナチに売ったのか?」というナゾが解けた後の復讐シーンのどす黒いユーモアと空しい余韻まで完璧に妥協ナシ!裏切り地獄めぐりを経ても安住の地に辿りつけない彼女の運命を暗示するラストも強烈。なにより作品世界が「所詮善悪なんて人間の都合と立場でコロコロ変わるもんよ」という視線に貫かれており、偽善的な理想を一切信じていないところがスバラシすぎ。不幸の底でのた打ち回る美女を観察するSM映画であってサスペンス娯楽歴史大作でもあり、反戦メッセージと爽快な暴力描写が両立し、戦争とファシズムを批判しつつナチの高官にも宿る人間性をドラマに盛り込むという具合に、見るものの価値観をシェイクしまくる暴力的メッセンジャーぶりも相変わらず。たしかにこんなややこしい映画はハリウッドでは無理でしょ。ただ映画自体は肉体的なグルーブに貫かれていて生き物のようにうねって飽きさせないいつものバーホーベン節で退屈とも無縁。これは傑作です!いまんとこ21世紀のベストですね。
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私が小学校の頃は、沢田研二や百恵ちゃん、ピンクレディーなんかの歌謡アイドルの全盛期。当時の芸能人は犬猫のようにオメコしては妊娠して行く最近のアイドルとは違う夢の世界の住人でした。ま内幕は今と似たりよったりなんだろうけど夢の内部はキッチリと隠蔽されていたわけです。そんな日本の芸能界のアイドル育成の雛形となったのがアメリカのモータウンレーベル。モータウンはテレビやラジオでのオンエアを前提にプロデューサー主導の下、作曲家・アーティストの分業体制で作られるノベルティヒット(ジャクソン5やシュープリームスが代表例)と平行して、マービン・ゲイやステイービィー・ワンダーなんかの作家性の強い傑作も沢山生んだなかなか一筋縄ではいかない奥深いレーベルでもあります。そんなモータウンをモデルにした架空のレコード会社を舞台に、華やかな芸能界の裏面と女の一代記を当時のヒット曲クリソツの楽曲に乗せて描いた音楽映画が「ドリームガールズ」。大ヒットミュージカルを下敷きに、超人的美貌とプロポーションを持った現役アイドルであるビヨンセを主演に迎え、彼女演じるアイドルを崇拝的に見上げる目線がゲイの道への深い造詣を感じさせるビル・コンドン監督が映画化したという余りにもショウビズの王道を行く一本であります。野心家の若き業界人志願の青年が、田舎のタレントショウに出ていた芸人志望の三人娘を見出し、従来の業界の慣行を無視した売り出し戦略でトップアイドルに押し上げ自身のレコード会社を成長させて行くが、メンバーの軋轢や恋愛のゴタゴタ、アーティストとしての葛藤や、薬物や金銭トラブルという難題が次々と持ち上がり…という芸能内幕モノおなじみのストーリー。ふつうこうしたアイドルもんでは女たちは守銭奴でスケベな男たちに利用され転落して行くのが常なのだが、本作は「ドリームガールズ」というだけあって終始目線はアイドル当人たちに注がれ、自分を見失い転落していく男たちを尻目に女たちは強くしたたかにサヴァイブし壊れていた女同士の友情さえ修復させてしまう。ドロドロしてるようでさわやかな人生賛歌で、ビヨンセとジェニファー・ハドソンの主人公二人も歌やファッションで見せ場タップリ。人生のトラブルを経ても神々しいままで、ずーっと「アイドル・夢の女」なのである。方や男性陣のジェイミー・フォックスやエディー・マーフィーなんて自分を見失って暴走した挙句悲惨な末路を辿る役回りで悲惨…。男は打算で自滅し、女は感性のまま成長していくという新時代のアイドル映画で、まそれなりに新鮮なんだけどちょっとさわやか過ぎるかなあ。「芸能界も色々あるけどまだまだ夢の世界なんだよ」というショウビズ界自身によるショウビズ賛歌といいますか。スターを美しく描いて芸能界への憧れを盛り立て、ついでにショウビズの世界の系譜に連なる新たなスターを作るという業界の自己回転作戦を見せられてるようでした。そりゃ業界内の人は喜ぶわなあ。ビヨンセは美人で華もあるが複雑な主人公の内面を表現できていたとは言いがたいかなあ。特に終盤の自我に目覚める過程の説得力は今二つでした。一方エフィ役のジェニファー・ハドソンさんは歌いっぷりもいいし自信家のエフィを貫禄タップリに演じていて人気の理由もよーく解りました。助演女優賞まではどうかと思いますが、まこれも業界を盛り上げるご祝儀ですか。他の出演者では「リーサルウエポン」のマータフ刑事でおなじみのダニー・グローバーさんのガンコオヤジが大変印象的でした。
日本でも中島哲也監督で70年代から80年代を舞台にした架空のアイドル映画を作ったら面白そうだなあ。
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何を今更なアカデミー賞をやっとこさ受賞されたスコッセッシ大先生。映画史を書き換えるような過去の名作を無視されまくった挙句の念願の受賞作「ディパーテッド」は香港映画のリメイク。オリジナル脚本での傑作の数々の立場は・・・という話はひとまず置いても、オリジナル作の「インファナルアフェア」も大傑作であるからしてリメイクへのハードルは高い。前々作の「ギャング・オブ・ニューヨーク」の主人公は、本来敵であるはずの存在に魅了されていく潜入者というキャラクター設定で「インファナル・アフェア」に通じる世界ではあったが、主演者のデカプリオが主人公の複雑な心象を表現出来ていたとは言い切れず、適役のダニエル・デイ・ルイスがやりたい放題でおいしい所を全部持っていっている感が強かった。今作も主演はすっかりスコッセシ組の常連と化したデカプリオ。オリジナルではトニー・レオンのナルシスト演技が印象的だった、やくざに潜入した警官という役所。左とんぺい似のエリック・ツアンだった人情親分役がジャック・ニコルソンなのはシブ過ぎるがまあ良いとして、問題は警察側キャストが弱いこと。アンディ・ラウのやってた警察に潜入したヤクザ役がマット・デイモンでは、オリジナルの繊細なインテリやくざ風味はゼロの上、苦味走った中年の魅力で日本の女子の股間を濡らしたと専らの評判だった(適当)、アンソニー・ウオンの役所(組織犯罪課警視)がもはや初老といって差し支えゼロのマーチン・シーンとはどうしたことか?これじゃあんまりと思ったか警察側には香港版にはいなかった毒舌家の上司(マーク・ウオルバーグ)が追加されてギャング側との均衡を図る策がとられている。まこうしたキャスト面の不満をおいても、作品自体にオリジナルにあった大事な大事なサムシングがどうも欠けてるのである。マンガ的ともいえる荒唐無稽なストーリーをリアルなロケシーンと俳優の男気演技で潤色することで、えもいわれぬ映画的興奮があふれていたオリジナルに比べて、今作は伝統的なアメリカのクライムフィクション的味付けで「騙し・騙され」のストーリーにばかり焦点が向いており、どうにもこうにも乾いているのである。従って屋上→落下というクライマックスシーンもどーもシレっと過ぎてしまう。まスコセッシ流の粘りの表現で本作を追求していくとますますオリジナルから逸脱していくような気もするのでこれはこれで一個の方針ではあるのだが。ロックミュージックの引用や暴力シーンなど変わらぬ映画文体はうれしいし、スコッセッシが追加したウオルバーグのキャラクターも抜群に印象的でラストシーン見ても香港版とは異質なクールな演出方針が良くわかる。見ている間は充分に楽しめましたが、スコッセシにとってもキャストにとっても入魂の一作というより二塁打狙いの軽い映画ではないでしょうか。アカデミー受賞も濃口のスコッセッシ映画にはアレルギーのあったアカデミー会員もこれくらい薄味なら、まあ抵抗無く頂けるというレベルだったと考えれば納得で、アジア映画にとっても実りのある事態ではあるしひとまず歓迎いたしましょう。次作は良識派を閉口させるようなキツイ一発頼みますよ!Jホラーのリメイクとかやったらどないしよ…。
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もいいとこですが2006年度の映画もやっとこさレビューし終わったのでベストファイブなどを・・・。
ベスト
1.「ヒストリー・オブ・バイオレンス」
2.「ブロークバック・マウンテン」
3.「ミュンヘン」
4.「父親たちの星条旗」
5.「007 カジノ・ロワイヤル」
正しい昭和映画枠「力道山」
石井館長推薦枠「クライング・フィスト」
希望枠「ゆれる」
心の1位「ローズ・イン・タイドランド」
クロネンバーグ久々の現代劇兼暴力映画は相変わらず強烈な作家性あふれる逸品でした。乾いた描写が心地よし。「ヒストリー・・・」と同じく片田舎で生きる個人の人生から社会全体を透視するような小さな映画「ブロークバックマウンテン」も傑作。映画におけるドラマというの何だかんだ言ってこういう題材を描いてこそという気がしました。ラストシーンの余韻は近年の映画体験では最高でした。アン・リーは映画にメッセージをこめる時の心技体が全て備わっております。「ミュンヘン」は逆にドラマが無くても映像だけで映画になると言う見本ですな。スピルバーグの語り口は完成されております。「ブロークバック・・・」とは対極ですが面白し。「父親たちの星条旗」は反戦でも好戦でもない本格戦争映画。「ミリオンダラー・ベイビー」よりも大分いい映画と思いますが。「カジノロワイヤル」は今年一番の娯楽映画。OO7映画でこんなに興奮したのは久々です。オープニングのかっこよさも特筆モノでした。日本の腑抜けた昭和ブームにカツを入れた「力道山」も素晴らしかった。カネヤンや張本さんなんかの昭和の在日野球選手の群像劇もお願いしたいなあ。スタルヒンの伝記映画とか。「クライング・フィスト」のコテコテな人情の押し売りもヨシ。「グエムル」「送還日記」も面白かったしやっぱり韓国もんは2006年も堅調でした。「ゆれる」の人物描写の鋭さは大変新鮮でした。オリジナル脚本の完成度も素晴らしい。テリー・ギリアムの「ローズ・イン・タイドランド」クロネンバーグと同じくベテランの健在振りを見せ付ける一本。暗い映画ですが世の中暗いんだから仕方ない。キツイ現実を妄想で乗り切ろうとする少女の姿にぐっと来ました。
ガッカリ映画
1.「M:i:III」
2.「レディ・イン・ザ・ウオーター」
3.「クラッシュ」
「M:i:III」はもはやスパイ映画というよりはトムくんの自己宣伝映画。家族愛アピールにうんざり。新ボンド映画と比較すればダメさは歴然でした。「レディ・イン・ザ・ウオーター」の幼稚さにも辟易。いい大人のイノセンス自慢は頂けません。「クラッシュ」は思わせぶりなだけで無内容。ただハギスさん「父親たちの星条旗」の脚本は素晴らしかったですが。
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右も左も、老いも若きも、日本もアメリカも、なぜか絶賛一辺倒の二本の硫黄島映画。実際スピルバーグをプロデューサーに迎えて「プライベートライアン」の迫真性を導入しつつ、ニューシネマのようなクールネスを湛えた落ち着き払った重厚な人間描写で映画的感動を盛り上げるイーストウッドの円熟しきった演出手腕はまさにゴリゴリの王道ぶり。まあ人間そのものが映画の権化と言っていい風格がございますな。二本とも勿論面白いのですが私のお気に入りはアメリカから見た硫黄島「父親たちの星条旗」。メデイアが祭り上げたヒーローが好戦気分の動員に利用され辿る悲劇、戦時下のメデイアコントロールと言う今日的なテーマの原点ともいうべき事件をあくまで人間に焦点して描く映像文体の自信にあふれた筆致の鋭いこと。岩山を上るとフットボールスタジアムだったというような、力強い映画的トリックの豪腕ぶりの眩しさときたら無い。「ブラッドワーク」でも白黒に画面が切り替わると言う単純なギミックに完璧な映画的興奮を載せていたイーストウッド監督、映像作りは単なるテクニックでは無いという快感原則を見せ付ける。地獄の戦場で戦った仲間への思いがあるがゆえに分裂していく男たち。そしてそんな個人を利用する国家と言う非情なシステム。「ダーティハリー」ではフラワームーブメントの渦中のサンフランシスコに暴力刑事を降臨させると言うカウンター振りを見せ付けたイーストウッドが戦時下のアメリカでも変わらず個人的なこだわりを映画にぶつける姿に、ハリウッド映画の底力を感じずにおれません。一方の日本から見た硫黄島「硫黄島からの手紙」もやはり凄い。何が凄いって日本人兵士の描写が説得力たっぷり。近頃やたらと「国民性」や「国益」といった単語で世界を分断するような論が跋扈しておりますが、兵士の運命に国境は無いというイーストウッドの巨大な人間観の前では国籍の違いも問題ナシ。無謀な精神主義の渦中であくまで理論的に効果的な作戦を模索する栗林中将の姿勢をなんでアメリカ人のイーストウッドがここまで思い入れたっぷりに描けるのか。アメリカを知る立場から勝ち筋を探す職業軍人の栗林やバロン西に、無謀な精神主義者の中村獅童や徴兵で来たくも無い戦場に連れてこられたパン屋の二宮君を対置し日本軍内部の事情を描いていく作劇も見事の一語。身の毛もよだつ自決シーンや心優しい憲兵のエピソードなどは本来日本映画が描くべき素材でありましょう。この二本の硫黄島映画はいわゆるジャーナリズム的な「両論併記」から発した企画で無くイーストウッドの人間への好奇心が先にたった自然な選択の結果でありましょう。戦争を政治利用しようとする党派的な「戦争論」を超えて、職業軍人の責任感と歩兵の生へのこだわり両方をともに人間の生き方の問題に還元して等価に扱う姿勢こそ映画的な魂。誰もが認めるわけである。やっぱりアメリカ映画は面白い。硫黄島二部作のプロデューサーであるスピルバーグの次回作はなんとマイケル・ベイ監督でタカラのおもちゃ「トランスフォーマー」の完全映画化。わたしゃ当然見に行きますけど。
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私が幼少の頃から007シリーズは映画の王様であった。特に私が小学生の時に封切られた「私を愛したスパイ」(以下「私愛」)の与えた衝撃は凄まじかった。車が潜水艦になってしまうという行き過ぎた秘密兵器や適役ジョーズの異常なキャラ立ちっぷりなどなど、いろんな意味でエポックな娯楽映画でありました。スピルバーグのインディ・ジョーンズやトム・クルーズの「スパイ大作戦」だってきっと007への見果てぬ憧れを表現しているはずである。ジャッキーだって「龍兄虎弟」や「スパルタンX]であられもない007愛(または香港的パクリ魂)を放出してました。そんな娯楽映画を志すもの全ての指標となる007シリーズだが正直「私愛」以降は長い迷走期間に入ってしまった。本来の「国際スパイもの+プレイボーイの諸国漫遊」という本分を逸脱し、ハリウッド製の筋肉アクションやSFXものCG映画に伍して行こうとする余りガジェットやスケール感のみに特化した作品作りで、007シリーズ本来の魅力を見失っている感があった。「私愛」が成功しすぎたがゆえに、シリーズの大作アクション映画としてのインフレ化がとまらず、結果単細胞アクション路線を踏襲した平均的な作品を連発する低空飛行を続けることになり、興行的にもメガヒットに結びつく作品は生まれなかった。まあかく言う私は「私愛」以降は「ユア・アイズ・オンリー」と「トゥモロー・ネバー・ダイ」が好きなんで矛盾してるんですが。そんな007シリーズが原点回帰をスローガンに新ボンド俳優を迎えてリニューアル。バカ映画の金字塔となった原作小説一作目の「カジノロワイヤル」を正調ボンド映画としてリスタートを図ると言うのだから穏やかではない。正直近作でも「リニューアル」「原点回帰」はスローガンとしては何度も言われてましたが中途半端に終わることが多かったので期待半ばでしたが、此度の「カジノ・ロワイヤル」の世評はすこぶるよろしい。期待を持って映画館に足を運んだのですが、これが予想を超える素晴らしい出来でボンド映画のベストファイブに間違い無く入る傑作!ガジェットや巨大な道具立てを使った爆発アクション、巨大スケールの陰謀という近作のクリシェを排除して、肉体アクションに拘った硬質なスパイ映画にぐるっと原点回帰。でこの路線が主演のダニエル・グレイグさんのプーチン大統領にも比せられるクールなハンサムぶりにドンパマリ。美女とのラブアフェアや植民地目線の世界漫遊、軽妙な会話(国際列車の食堂車でヒロインと交わされる会話の応酬が素晴らしい)、嫌味なまでにゴージャスな舞台設定、セックスや暴力をサカナにした悪趣味ギリギリなへらず口、全てが大人向けにスケールアップ。おなじみのアヴァンタイトルのシークエンスもリニューアルしてるが、例の銃口へ向けての射撃のカットもドラマに溶け込ませてあって興奮しつつ唸らされる。ボンドカーで走り出した瞬間クラッシュするあたりのスカシも憎いし、その後のキンタマ拷問シーンも凄惨でアダルト。クライマックスは閉鎖状況の肉体アクションに限定しつつ世界遺産をぶっ壊すと言う不謹慎ぶりのワルノリ感が良い。プレイボーイの純情を覗かせる切ない結末で、今作では一貫して自信家で不遜な若きボンドの人間的成長を匂わせるのもうまいなあ。あと今作の題材であるカジノのゲームをモチーフにしたオープニングのCGアニメもカラフルかつ007テイスト満載で最高!このオープニングを大画面で見るだけでも入場料の値打ちがありまっせ(レイトで1200円で見たけど)。2時間半の長尺ですがアッという間です。最近のジャリ向け、カップル向けの甘口のアクションが増えたとお嘆きの貴兄は本作をぜひどうぞ。
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カリフォルニア、というところは西洋文明のドン詰りである。そういや昔奈良で「シルクロード博覧会」というのがあったがあれは「奈良はシルクロードの終着点である」という苦しい理屈(屁理屈?)に依拠したイベントでしたね。カリフォルニアの方はまあ間違いなく西洋文明の終着点ですが、ヨーロッパを起源にする文明もここまで来ると何かと色々極端な脚色が施されている。オペラや演劇は、奇術や見世物と混交してハリウッド映画を生んだ。妄想の具現化であるディズニーランドやユニバーサルスタジオなんかのテーマパークが洗練を重ねて、マイケルジャクソンのネバーランドに行き着いてしまうという吹っ切れた狂気の連なりも極めて特徴的。ミクスチャーロックやギャングスタラップなんかのスワップ文化は物騒だが大らかな当地の空気を否応なく伝える。私が住んでる関西も伝統的に行政や警察の腐敗でとみに有名であり、格闘技のK-1や日本一のヤクザ組織を胚胎したまあなんちゅうか適当且つ大雑把なところ。どんなに面白いこと言っても目が笑っていない吉本の大御所芸人は、苦みばしったギャングスタラッパーと同系統の顔つきじゃないですか?違いますかそうですか。関西でもここ数年は夏の暑さが半端でなく熱帯化が著しい。このままバンコクやマニラみたいな適当都市になったらいいんじゃないかと真剣に考えてる私ですが、腐敗が当たり前の都市と言うのも芸の域まで高めればOKでありましょう。そんな暗黒都市のカリフォルニア代表はダントツでLA。チャンドラーの犯罪小説で描かれたような、大富豪と政界とギャングが癒着した夢もチボウもない暴力都市のイメージは大阪が歩みつつある転落コースの王道を行くもの。夢のハリウッドのハリボテセットの裏側で、人を人とも思わぬビッグマンたちが夜な夜なアルコールと薬物におぼれながら映画女優とちちくりあっては悪巧み、ああすばらしき「鹿の園」かなと言う感じの教養主義とは対極の淫靡な世界の魅力はなかなか表現が難しい。そんなLAの暗黒街映画代表はなんと言ってもポランスキーの「チャイナタウン」。美女からの依頼で事件に巻き込まれた探偵が、巨大な陰謀の中をへらず口を叩きながら漕ぎ渡りやがてたどり着く余りにも後味の悪いラストシーン。乾いているよでどろどろしてるあのニュアンスはなかなか出せるもんじゃない。最近じゃデビッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」がどんぴしゃのLA映画でしたね。「サンセット大通り」を下敷きに女優志願の娘が辿る狂気の地獄めぐりはリンチ節全開!映画業界への言及ぶりも悪魔的でしたな。三面記事大好きボブ・フォッシーおじさんがプレイメイトがヒモに殺されるという実際の殺人事件を映画化した「スター80」なんかも味わい深い逸品でした。そんなLA映画の伝統に加わるべくジェイムス・エルロイ原作の「ブラックダリア」がデ・パルマ監督と言うこれ以上ない布陣で、満を持して映画化されたとあっては期待するなと言う方が無理である。エルロイ小説の映画化といえば何をおいても「LAコンフィデンシャル」ですが、原作読んで映画見るとダイジェスト的でそんなに好きな映画ではなかった。もとよりエルロイ先生は異常に饒舌の文体の長大な作品ばかり。尺が何分合っても足りないのである。でデ・パルマ版「ブラックダリア」もやっぱり駆け足っぽい(ちなみに原作は未読です)。沢山登場するキャラクターの背景や行動の動機付けを飲み下してる時間がないのであります。野心家と直情型という二人の有望な現場警察官の友情と悲しい過去を持つ女を巡る葛藤、過去との格闘の果てに超えてはいけない一線を越える警官、ナゾの大富豪の血の因縁、胴体が切断された女優志願の田舎娘の死体、ポルノ映画とスナッフフィルム、女優志願の娘をそろえた高級売春組織等々、いわゆるLA映画の道具立てはテンコもりなんだがどうもしっくりこないし熱がない。母親を殺害された上事件自体が迷宮入りしてるというエルロイ氏にとって実際の「ブラックダリア事件」は、自身の創作活動の原点にもなるような魅惑されて止まない事件らしいのだが、どうも肝心のデ・パルマさんがお仕事ぽいというか、主人公の二人の刑事にも、切り離された死体にも、不幸な女たちにももれなくこだわりが感じられないんだなあ。「レイジングケイン」や「スネークアイズ」みたいな、理解不能のこだわりゆえに映画自体の底が抜けてしまったような作品とは余りに両極端で、まあどっちがいいともいえないけれど「別にデ・パルマでなくていいじゃん」と言いたくなる無難な映画でした。デ・パルマ監督でマイケル・ジャクソンの伝記映画とかどうかなあ?興味ないかなあ。
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ホントここ数年の韓国映画の充実振りはすさまじいの一言。2006年も「力道山」や「クライングフィスト」「送還日記」なんて力作を連発してるが、最近見た「マルチュク青春通り」も面白かったなあ。「エデンの東」とジャニーズのアイドル映画とブルース・リー映画と「高校生大パニック」が奇跡の合体を遂げた衝撃の一本でした。劇場で見ていなかった己の不明を恥じて自害しそうになりました。ま勿論「猟奇的な頭の中の消しゴムがバンジージャンプスするのは好きですか」みたいな映画は「俺にとっての韓国映画」からは除外ですが。そんな韓国映画の中でも特に、強烈な作家性を持つアクの強い監督たちの仕事は目が離せないこと夥しい。私的21世紀ベストワン映画「親切なクムジャさん」や「オールドボーイ」のパク・チャヌク、「友へ チング」「チャンピオン」そして「タイフーン」(は最悪でしたな)のクァク・キョンテク、熱狂的信者を持つガテン系芸術監督キム・ギドク。そんな監督連の中でもストレンジなアイデアをリアルですっとぼけた筆致で描くポン・ジュノはあらゆる映画好きが太鼓判を押す破格の才能。デビュー作の「ほえる犬は噛まない」見た時の衝撃は忘れられない。出世を思いつめる余り、近所の飼い犬を次々殺していく大学教員というどう考えても感情移入できない主人公に等身大の苦悩を詰め込み、生活感バリバリの風景の中でロケされていながら、何故かポップで笑えるという快作であった。世評が高かった「殺人の追憶」も、実際の未解決事件捜査を題材にしながらも、功名心の為に人権無視のデタラメ捜査をする暴力刑事が主人公という凄い設定。知恵遅れの容疑者を逆さ吊りにして自白を強要したりする人権への配慮ゼロの名シーンを随所に挟みながら、とぼけたギャグ満載でストーリーを転がして行き、緊張感あふれるシリアスなラストシーンへと牽引していく手際は世界最高レベルの巧みさ。あらゆる映画好きが舌を巻く才気の輝きが満載の傑作であった。まあ自分は「ほえる犬は噛まない」のほうが好きなんだけどね。そんな韓国映画界随一の才人ポンさんの新作が怪獣映画と聞いたときは思わずのけぞったもんである。まあ同じくアジアの才人であるアン・リーだって武侠映画→アメコミ映画→アート系ホモ映画と無節操なまでに自由なフィルモグラフィーを重ねているが。ポンさんが新作に選んだ怪獣映画は、歴史的マスターピースである「キングコング」以来映画史から絶えたことのない、いわば最古のジャンル映画。最近じゃP・J版「キングコング」やちょっと古いが金子修介監督の平成ガメラシリーズがジャンル愛あふれる王道的怪獣映画だったし、もすこし遡れば「ジュラシック・パーク」もスピルバーグ流の怪獣映画。ラストでTレックスの絶叫に合わせて垂れ幕が落ちてくるシーンなんて、完全に怪獣愛がワルノリしてる。これら近作は、いわゆる「怪獣映画というジャンル」が伝統的に持つお約束への理解度や旧作へのリスペクト度合いを競い合っていたもんだが、ポン・ジュノ版の怪獣映画「グエムル 漢江の怪物」はそんなリバイバル感覚とは無縁。本作で凶暴な怪獣と対峙するのは、最新兵器を備えた軍隊や科学者や政治家と言う、怪獣映画でおなじみのメンツで無く、なんと負け組丸出しのボンクラ家族なのだ。冒頭こそ米軍の実験施設から薬品が流れ出るというZ級パニック映画の引用(オマージュと言うには余りにも意味の無いギャグ)から始まるものの、あとは怪獣映画のタブーを尽く犯して大暴走。従来の怪獣映画は中盤手前まで怪獣の姿を隠してドラマを盛り上げるのがお約束だが、不謹慎が売りの韓国映画にそんな気配りは通用しない。怪獣は映画冒頭いきなり白日の下に姿をさらし、全体像をアッサリと開陳して大暴れと言うズル向けな展開。平和な昼下がりの河川敷に突如現れた怪獣が片っ端から逃げ惑う人間を食いまくるシーンで、作品は快調に走り出す。怪獣は悪行の限りを尽くし(なぜか白人男性との格闘あり。意味は不明)河川敷で売店を経営するパク一家の中学生の娘ヒョンソを連れ去って川に消えてしまう。一家の希望であるかわいいヒョンソを取り戻すべく、漢江に消えた怪獣の後を追うパク一家であるが、ポン・ジュノ映画の歴代主人公の例に漏れずダメ人間ぞろい。ヒョンソの父親のスルメ一枚満足に焼けないちょっと頭の弱い長兄(「殺人の追憶」に続いて主演のソン・ガンホ)、ここ一番に弱いアーチェリー選手(この時点で出オチの設定)の長女(ラブコメヒロインから拷問失禁シーンまで仕事を選ばない女ぺ・ドゥナ)学生運動のやりすぎで一流大学出てるのにバイト生活の次男(「殺人の追憶」の不気味な容疑者パク・ヘイル)と頼りない三兄弟と年老いたオヤジさんの四人が無い知恵をしぼって怪獣を探し出し、かわいいヒョンソを奪い返そうと奮闘するという物語は、怪獣映画とホームコメディの合体というありえない世界。ボンクラ一家対大怪獣という極めてスケールの小さい怪獣映画で、ストーリーも徹底してパク一家に焦点したまま進行し完結していく。ダメ人間のアホな行状を活写しつつ、徹底して愛情のある目線を忘れないポンさんの演出は今作も終始冴えまくり。怪獣探索で疲れ果てた一家がつぶれかけた売店の売り物でわびしい夕食をとる場面に、突如ヒョンソが現れて空腹で空想にふける本人の姿に移行していくモンタージュの全く新しい映画的快感に、ポンさんの変わらぬ才気があふれる。巨大な放水路の風景や寂れた売店などロケシーンも相変わらず新鮮だし、囚われのヒョンソが自分を省みず浮浪児を救おうとする優しさにもホロリと来る。そしてボンクラ一家が全存在をかけて怪獣とタイマンするクライマックスの高揚感の素晴らしさ。学生運動挫折組の次男が火炎瓶で怪獣に立ち向かうという捨て身のギャグがまぶしい。怪獣誕生の顛末をもみ消そうと政府と米軍が暗躍し化学兵器を散布しようとする陰謀も描かれるが、この辺は悪ふざけのようでいて、最近の在韓米軍を巡る韓国の世相の反映も見れて興味深い。アホな様で深く、すかしてるようで熱く、エンタテイメントでありながら批判精神も横溢している。私はポン・ジュノ監督の資質は先頃無くなったロバート・アルトマンに近いと感じます。同世代の現役の監督ならPTAも。群像劇とダメ人間のここ一番の頑張りのドラマが得意なところが似てるでしょ。私の苦手な家族愛もこんな映画ならOKですよ。
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いまやハリウッドのタイクーンは女好きで親分肌のガハハ親父タイプは少なく、タランティーノやピーター・ジャクソン、サム・ライミなんてオタクばかりが目に付く。文学や芸術映画という高級料理でなく、コミックやB級映画というジャンクフードで育ったオタク監督たちが作る映画は社会性や歴史観より、サブカルチャーに対する自己言及が優先されるのが特徴的。そんなオタク監督の地金が当初なかなか分かり難かったのがM・ナイト・シャマラン。この人の映画は、いわば芸術映画の手法で撮られた、B級映画。不安を惹起する絢爛たる映像・演出テクニックと描かれる題材の下らなさのギャップが面白い「アンブレイカブル」や「サイン」は好きな映画だけど、映画全体が思わせぶりなだけの「ビレッジ」まで行くとお手上げである。「ビレッジ」は眠気ばかりを誘う作品の出来は勿論、「謎解きの大ネタ自体が過去作のパクリだ」と轟々たる非難を浴び、批評的にも興行的にも惨敗した。ま私もひどい映画だと思いました。意外に引き出しが少なく世間に飽きられ出したシャマラン監督だが、新作「レディ・イン・ザ・ウオーター」の予告編は期待をあおりまくる素晴らしいものだった。プールに住んでる幽霊が泳いでいる人を襲っていく怪奇映画だと思ってたのだが、いざ見てみると、ポール・ジアマッティが管理人してるアパートのプールから突然水の妖精が出てきて、住人が総出で彼女を妖精の世界に帰そうと奮闘するという物語であった。ホラー映画を期待してたこちらはがっくり肩透かしで、しかも物語がはっきりとご都合主義で生ぬるいことこの上ない。全然中性的でも神秘的でもない水の妖精(終始半病人みたいで見ててイライラする)の名前はご丁寧にも「ストーリー」で、どうもシャマラン氏は妖精を信じるイノセンスや「物語=おとぎ話」を守ることの大事さを訴えてるようである。劇中ご丁寧にも、揚げ足取りばっかりしてる映画評論家が地獄の番犬に食い殺されるシーンまである。批評家に自作のご都合主義や幼稚さを批判されたことに相当立腹してたのであろうことは伝わってくるが、作り手の「俺は物語を語ってる特別な人間なんだ!ゴチャゴチャ批判しないで出されたもん黙って見てろよ」という特権意識にはゲンナリ。そもそも「ストーリーを語ることの重要性」を「『ストーリー』という名前の妖精を守る」という物語で訴える安易さが、「ストーリーを語る」ことの否定になっている間抜けさにまず気付くべきなのでは?貧困な物語で「物語ることの重要性」を訴えても伝わりますまい。シャマラン監督は自身ストーリーテラーだと自負されているのかもしれませんが、出来た作品は明らかに批評的で分析的。なんともアンビバレントで残念な出来であります。
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早いもので9・11テロからもう5年経った。昨秋の5周年記念日周辺では何故か陰謀論が狂い咲きし、ビルの崩壊の様子をコマ送りで検証したり、ペンタゴンに激突したのは飛行機じゃなくミサイルではないかと推測したりするテレビ番組や分析書が華盛りであった。なぜか日本での陰謀論の旗振り役がベンジャミン・フルフォード氏だったりするところが私のツボにも入って、氏のDVD付き著作を買って色々お勉強させて頂きました。ベンジャミンの日本でもアメリカでもタブーに土足で踏み込む芸風は大変面白く、また自由を感じさせるのだが、もし事件直後に斯様な陰謀論を展開してたら不謹慎なイエロージャーナリストとして殺されても文句も言えぬような壮絶なバッシングを受けたに違いない。唯一「華氏911」が、早すぎる(それでも2004年)9・11テロ陰謀論とイラク戦争批判であり、反米派から親米派、サブカル好きからも横断的に批判されつつ、商業的成功と実社会へのインパクトを両立させる希有な例となった。マイケルムーアの映画脳にはやはり独自性と先見性がある。時事問題に対する速報性が売りとなっているハリウッド映画でもボチボチ9・11テロに材をとった劇映画が登場しだしたが、事件直後に「アメリカの映画人はこの事件を映画にしないで何とする!」と早すぎるアジテーションを行って批判を浴びたのが誰あろうオリバー・ストーンであった。ベトナム戦争映画だってまずは帰還兵の悲哀と言う身内の問題を描いた「帰郷」や「ディアハンター」からはじまりベトナムを借景としてだけ頂いた「地獄の黙示録」で戦地でのアメリカ兵の狂気の振る舞いをスペクタクルとして挟み込み、やがて「プラトーン」や「フルメタルジャケット」「カジュアリティーズ」といった戦場の狂気の論理を仮借なく描く作品へと移行していった。「サルバドル」「プラトーン」「トーク・レイディオ」「ウオール街」から「JFK]「ニクソン」まで常にアメリカの時事問題をサスペンスフルな娯楽映画にしてきた豪腕野郎の不謹慎ぶりはまあ周知のことであるが、それにしたっていささか気が早すぎる。そんな言いだしっぺのストーンが満を持して放つ9・11映画がタイトルもそのものズバリの「ワールド・トレード・センター」。もしや今話題の陰謀論なども織り込んだ、「サルバドル」みたいなスキャンダラスな不謹慎快作なのでは?と密かな期待を抱いて劇場に向かったのでありますが…。映画の大筋はテロ事件直後にワールドトレードセンターに人命救助に入って崩壊に巻き込まれ、生き埋めになった警察官の救出劇。『感動の実話の映画化』というやつである。「アレキサンダー」の主人公は全世界を征服しようと言う野心家だったが今作は、生き埋めになった二人の制服警官。ふり幅ありすぎである。この救出劇に重要な役割を果たすのが、湾岸戦争の帰還兵にして敬虔なキリスト教徒であるデイブ・カーンズと言う海兵隊員。この人田舎の教会で突然神の啓示を受けNYの被災地に入り込み、勝手に人命救助を始める。まあこれは神戸でもよくあった話ですね。戦地で鍛えた男気で根気良く瓦礫の中に呼びかけると中から生き埋めの二人のかすかな反応が…。二次災害と戦いながらの救出現場、妻と家族が待つ家、そして瓦礫の下の二人を行き来するドラマ演出はケレン味ゼロ。家族の絆、現場で頑張る救急隊員や兵士、警察官などの奮闘振りを強調する演出はきわめてオーソドックスで、感動の救出と家族との再会でごく普通に完結する作品はストーン映画としては破格の直球ぶり。「面白きゃイイじゃん」とばかりに事実に無いようなシーン満載だった「JFK」の、例えばドナルド・サザランドがケビン・コスナーに散歩しながら陰謀論を開陳するような、映画的な興奮にあふれたシーンは皆無。まして「アレキサンダー」や「NBK」みたいな挑発的な目線は微塵もナシ。まあ映画としては普通のいい映画なんだろうけど、ストーン映画としては物足りませんでした。今じゃすっかり厭戦気分でブッシュ批判が喧しいアメリカではあるが、それも米兵の死者が増え続けているからで、別にイラク戦争そのものの道義性を批判しているわけじゃない。民主党の主張なんて「大勢死んでる割には見返りが少ないからもう辞めよう」てな無責任な論理である。この作品そんな世情に対するストーンなりの異議申し立てなのでしょうか?そういえば神の声を聞いて二人を探し出したデイブ・カーンズ三等曹長だけが、ストーン映画らしい狂気を漂わせたキャラクターでした。ただラストに字幕で「カーンズはその後海兵隊に復帰し、イラクで戦った」てな説明が出ましたが、イラクは9・11テロへの関与も薄く大量破壊兵器の保持も確認出来なかったということ、ストーンともあろうものが知らぬはずが無い。彼が人命救助をしたのは事実なのだろうが、イラク戦争ははっきりと大義も必要性も無い戦争だと分かっているはずだ。真意が分からない補足でありました。それでもいまだナマナマしい事件の映画化に手をつけたとことは、映画人としては賞賛されるべきことですが。
どうもテロや戦争を語る言語はますます硬直化の一途を辿っている気がする。愛国の強制や(そもそも愛は強制するものではない)、憲法改正を巡る論議の不毛は結局、「戦争と言うものをどう評価するのか」という個人的な立場を鮮明にしないとなりたたないことを棚上げにしているからではないのか。モハメド・アリが徴兵拒否をする心情を語った言葉であるところの「俺はベトコンにうらみは無い」と言うようなクリアな言説こそ今求められているのではないか?国益だの歴史だの、世界平和だのと言う以前の「会ったこともない外国人と殺しあわないといけない理由なんかそもそも無いんじゃなの?」という素朴な問い。私もまあ無名の一国民男子なので今戦争が始まれば戦地に送られることは確実。アリはアリでも働きアリとして戦地に送られて理由も定かでない殺し合いに動員される身である。だがそんな無名の国民ほど勇ましい改憲論や愛国心の高揚を待望してるフシがあってなんとも不思議なんだよなあ。死に急いでるのか?
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超人といえばニーチェ?マス大山?キン肉マン?やっぱり一番メジャーなのはアメコミの「スーパーマン」でしょ。なんだかんだ言って世界で一番有名なマンガの主人公かもね。かく言う私も人生で初めて映画館で見た映画はC・リーブ主演の旧シリーズ「スーパーマン」の第一作。字幕を追うのも大変だったけど話はド単純だし、「世を忍ぶ仮の姿は新聞記者で、回転ドアや電話ボックスで変身する」なんて大雑把な設定もなぜか既に知っていたので、楽しく観賞できました。当時は「スターウォーズ」シリーズの方が世間じゃ話題だったが、未チン毛年齢の小学生だった小倉少年はバカでも理解できる抜けのいい「スーパーマン」の方が好みであった。旧シリーズは相当迷走して尻すぼみで終わったが、兄弟作(文字通り)の「スーパーガール」のテーマ音楽は今でも情報番組のBGMなんかでたびたび耳にしますな。
で満を持して復活したスーパーマンの新作が「スーパーマン リターンズ」。さしずめ「帰ってきたスーパーマン」、アメリカ版の「帰りマン」である。ここんとこのアメリカ映画界の企画枯れを見ればシリーズの復活は必然ではあるが、確か企画段階では作品名は「スーパーマン リボーン」で監督候補にはティム・バートンやピーター・ジャクソンなんて期待感が膨らむ名前が踊ってたんだけど、いざ蓋を開けたら「X-メン」を降板したブライアン・シンガーが監督になっていた。まあ「X-メン」もそう悪いアメコミ映画ではないが、アイデンティティを巡る葛藤の描写がいかんせんちょっと陰気だったんで、旧作では底抜けに能天気だった「スーパーマン」の世界観に黒雲が漂いやせんかいなと要らぬ心配もしたくなる。で映画を見てみたらその心配は少し意外な形で的中していた。お話は旧シリーズパート2の「冒険編」のあとと言う設定で、宇宙に自分探しの旅に出ていたスーパーマンが何年かぶり地球に戻ってみると・・・、というお話。勿論最大の見せ場となる人助けや世直しのシーンは特撮も見事で爽快だし、SFXやCG技術をふんだんに使った特殊能力の描写もアイデア重視で面白い。おなじみの「鳥だ!飛行機だ!」や「弾よりも早く!」という一連の名調子もまんま映像化されており楽しい。問題は彼が世を忍ぶ仮の姿であるクラーク・ケント時のいわゆる人間ドラマ。現代の世情に合わせて行われているであろうアレンジがなんだか少しおかしいのだ。おなじみの恋人ロイス・レインは私生児(昼メロ的な出世の秘密アリ)を生んでシングル・マザーになってるが、職場の同僚(包容力のある好人物)と入籍目前で連れ子も彼にすっかりなついてる。「あんなヤサ男のどこがええんじゃい」とばかりやきもきするケント氏は、スーパーどころか女の腐ったようなダメ男節全開。元はと言えば自分の放浪癖が原因なのに、ロイスとよりを戻したい一心で、特殊能力を使ってロイスの後をつけ彼女の家を突き止めて若夫婦の暮らしぶりを透視したり、二人の会話に聞き耳を立てたりとやってることはストーカー。「彼もまた迷える人間なんだ」という現代的アレンジのつもりやも知れませんが、「スーパーな能力で何をやっとんじゃい」と観客をあきれさせるだけの、余計な気使いだったような。ケントじゃモテないと悟った彼は、日夜ストーキングを重ねて彼女の心が弱ってる絶妙のタイミングを見計らいスーパーマンに変身して登場!おなじみの空中散歩でロイスをうっとりさせるんだからたまらない。本来ならロマンチックなシーンのはずだがスーパーマンのやり口がナンパ師みたいでどうも居心地が悪い。とプライベートなドラマ部分がどうもおかしい新シリーズ。他にもクリプトナイトで特殊能力を奪われたスーパーマンがケビン・スペイシー扮するレックス・ルーサーにヤキを入れられというおなじみのシーンも、なぜか水溜りだらけの沼地みたいなところで展開するので、まるで泥レス。端正な顔を苦痛にゆがめて泥の海をのた打ち回るスーパーマンの入念な描写にはただならぬ気合がこもりすぎで映画全体のバランスすら壊しかねない粘りよう・・・。「X-メン」も悩めるホモセクシャルの戦いの映画にしてしまったシンガー監督の面目躍如と言えばそれまでですが。
とこのように爽快なアクションシーンが吹っ飛ぶような、強烈な描写ばかりが気になって仕方が無い新シリーズは、前作のような大衆的人気を獲得できるでしょうか?この路線も突き詰めれば新しいアメコミ映画の鉱脈を掘り当てることがあるのでしょうか?
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イギリス産の犯罪映画といえば、私的には最近じゃガイ・リッチーの「ロック・ストック・&トゥー・スモーキング・バレルズ」が一番の成功例ですな。でも「ロック・ストック・・・」ももう十年近く前か。全然最近じゃないか・・・。暗黒街の群像劇なのにコメディーという大変新鮮な作風でした。そんな大ヒットシリーズも「スナッチ」でバブルの頂点を迎え、一躍オシャレセレブに成り上がったガイ・リッチーは気がつけばマドンナの婿になりチンピラ映画とはおさらば。だが婦唱夫随、公私混同、夫婦共演の新作「スウェプト・アウェイ」が歴史的大コケで映画作家としてはマドンナとの結婚は功奏しなかった。セレブ道は厳しい。対して、陰気なイギリスに取り残されたと見られてた「ロック・ストック・・・」組が、新ジェームス・ボンドに抜擢されたクールなハンサム、ダニエル・クレイグを主演にすえてリッチーなきあとも映画バカとしての健在振りを見せ付けたのが「レイヤーケーキ」である。「ロックストック・・・」シリーズはダメな若者4人が暗黒街の恐怖の親父たちの間をピンボールの玉のようにはじかれて転がるサマを笑う映画であったが、本作「レイヤーケーキ」の主人公はダメなチンピラでは無く、金にも女にも不自由しない切れモンの優秀なギャング。欲をかかず、仲間を大事にし、権力を抜かりなく警戒する慎重で仕事の出来る男である。この暗黒街の中間管理職とでも言うべき主人公の仕事は麻薬の卸。危ない橋を渡って蓄財した金を持って、ボチボチ引退しようと考える彼に同時に二つの仕事が持ち込まれる。ひとつは粗暴なヤク中が持ち込んだ素性の知れない大量のエクスタシーを捌く一攫千金の大仕事。もう一つはボスの特命で、スケコマシのチンピラに引っかかって行方不明になった不良娘(幹部の娘らしい)を探すという渡世の雑用。金儲けの方は乗り気でも、人探しのほうはとんと気が進まない風情の彼だが、ボスの命令は絶対。人脈をたどって件の娘を追い込んでいく。デキる男の彼にとってはどちらも造作の無い仕事のはずだったのだが・・・。大金をもたらすはずだったエクスタシーの方もモノは上ネタだがやばいスジから盗んだ盗品とわかり、本来の持ち主に命を狙われることになり、人探しの方も思わぬ横槍が入りさらに大きな陰謀に巻き込まれボスと対立することになる。彼は果たして、優秀な仲間と力をあわせて二つの事件を乗りきり大金を抱いて引退できるのか?という本作は、お話も映像も一貫してシリアスでスタイリッシュ。主人公は絶体絶命の窮地を知恵と機転で乗り切り、一本どっこで暗黒街を漕ぎ渡る度胸満点のデキる男という設定だが、演じるクレイグさんの怜悧なルックスは本作の世界観にバッチリとはまり、乾いた緊張感と大人の色気を映画全体にかもし出す。「ロック・ストック・・・」のテイストは残ってるけどもっと落ち着いた映画なのだ。諸行無常の響きがあって諦観に満ちてるストーリーも味わい深く、わけてもハッピーエンドでも教訓的でもないラストがいい。
ふらっと行った映画館で、あるいは何の気なしにレンタル屋で手にとってこういう映画に出会ったらうれしくて友達に勧めて回るだろうなあ、というよな一本でした。説明になってないか。年に一本はこういう良く出来た、歯ごたえのある娯楽映画が見たいもんです。
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あけましておめでとうございます。なんとなく更新をほっぽり出してぼんやりしてるうちに年が改まってしまいました。昨秋は大道芸のイベントでDVDを売ったり、某来日アーティストの方のライブを撮影させてもらったり、映像付きライブをやったりと映像作家活動で芸術の秋を過ごしておりました。まあナンボ忙しぶったところで、更新するくらいの暇は正直あったのですが、何分二つのことが同時に出来ない性分でして。数少ない読者の皆様におかれましては、要らぬご心配をかけたやも知れません。今後はもし更新が滞ったら孤独死かも知れないので警察への通報よろしくお願いします。通報者にはエロDVDを形見分けいたします。
と笑えない冗談はほどほどにして、たまっている映画の感想を。新作映画の感想を三月ほど放置するとDVDのリリース時期にうまくかち合うこと発見しました。怠惰が人の役に立つこともある!と強弁してまずはスパイク・リー監督の「インサイド・マン」から。私の大好きなリー監督、かつてはブラックカルチャーの寵児としてオシャレ人種にも大人気だったもんだが、今や半ケツがデフォルトの黒人ワナビーな少年たちからも「誰やそれ」状態。猫も杓子もバッタもんのXキャップ被ってたあのころが懐かしい。なぜかマツダの大衆車のCMタレントやmcA・Tのプロモ監督なんてヨゴレ仕事までして認知度抜群だったあのころ・・・。時代と寝たものの悲しさと言ってしまえばそれまでだが、なまじ流行りもんになったがゆえに、飽きっぽい大衆に消費され「アイツは終わった」なんて斬って捨てられてしまう。そうでなくてもマジメで説教くさく、物議を醸す作風。ギャングスタラップという不良の自慢話(これも勿論素晴らしい黒人文化です)に夢中の少年少女が、そもそも食いつくようなモンではなかった。デビュー当時は「黒いジャームッシュ」なんて差別ギリギリのキャッチコピーで紹介されることも多かった彼。ジャームッシュみたいにNYインディーズとして小さい作品を連発する道もあったろうが、彼はメジャー映画界と言う荒野で、黒人としての地歩を築くイバラの道をあえて選択した。「フープドリームス」と言う映画(バスケに打ち込む二人の黒人少年に密着した傑作ドキュメンタリー)に当時のリーさんが登場するシーンがある。NIKEが有望な高校生のバスケ選手を集めて行うサマーキャンプ。ニックスファンとして会場で良くテレビに写り込んでるリーさんだがこの時は大マジ。ゲストとして高校生の前に立ち「君達が挫折すると黒人自体がダメだといわれる。責任もってやりとげろ」といたずらに萎縮を誘うような超ヘビーな説教を決め、ガキどもをドン引きさせるというその役回りのヘビーなこと。黒人のスポークスマンとして注目される彼の日常は、実際緊張の連続なのだろう。まあすっかりファッショナブルなモンではなくなったリーさんの映画だが、世間の注目度に反して近作の充実振りすさまじく、作品世界は確実に深化している。特に最近作の「25時」は重厚なテーマの傑作であった。で新作が楽しみだったのだが、この「インサイドマン」はなんだかちょっと過去のリー映画とは異質。豪華キャスト(デンゼル、ジョデ・フォスのアカデミー主演賞二人にウイレム・デフォーまでいる)の演技で引っ張る堅実な演出でもって、タイトルに沿った大オチがつくラストに導いていく手つきが、なんちゅうかとんちクイズ的と言うか、脳トレ臭というかいつもの豪腕ぶりが無いのだ。まあ確かに良く出来た脚本ではあるがスパイク・リーの映画としては薄味。方々で誉められてる巧みな語り口は、リーさんの近作の充実度を見れば当然の出来で、驚きは無い。勿論駄作ではない(むしろ最近のアメリカの犯罪映画の中では異色な良心作)し、雇われ仕事でも、リーさんの刻印はしっかりと押されているのだが、やっぱりちょっといつもの説教を聞かないとものたりないんだなあ。まあまたご自身の企画でキツイ一発をお願いしますよ。
ところで今作も、相変わらずオープンニングとエンデイングロールが凝ってて嬉しかった。オープニングタイトルが金庫のダイヤルみたいに回ってそろって行くのがクールでした。タイトルの出方に凝る映画人は無条件で好きです。
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なぜかおすぎさんが「ニュース23」で絶賛してた、「ゆれる」という映画。良く映画スポットに使われる「おすぎさんの賛辞」がどの程度興行価値があるのか知らないが、私は興味が沸いて見に行ってしまいました。オリジナル脚本兼監督は、不勉強で存じ上げていなかった西川美和さんという方。この恐るべき女性監督、ド鋭い観察眼で老いも若きも容赦なく透視しまくり!この人にかかったら男も女も丸裸!主人公の売れっ子写真家を演じるのは、オダギリジョー君。不遜で生意気な調子に乗ってる男前にバッチリとはまっている。開巻冒頭シーンでのストーリーを進行させつつ若先生ジョー君の暴君振り(自分が開けた冷蔵庫を閉めず、自分が点けた煙草も消さず、自分とデキてる女性スタッフに後始末させる)を自然に描き込む手際の良さに、作品への期待が自然と高まる。母の一周忌の為に実家に帰ったジョー君は、法事の前に生家が経営するガソリンスタンドに立ち寄る。とそこに働いていたのは東京に出るときに田舎に残してきた元彼女。油にまみれて働いてる彼女は、久々に見てみるとガソリン入れさしとくには勿体無いようないい女だ。法事の席で家族、親族と再会したジョー君だがどうも父親とは巧く行ってないよう。家族を省みず東京で調子こいて生きてる息子が気に入らない親父(すぐキレる)と、家業のスタンド経営で母親が働き詰めだったのは仕事人間の父親のせいだと思っている息子。これまた容赦なく鋭い設定だ。そんなジョー君には家業を継いだ兄がいる。この美貌や芸術的才能とは縁の無い、実直だけが取り柄の不器用な兄を演じるのは香川照之。悪酔いした親父がひっくり返したお膳を片付ける照之兄さんのパールトーン加工した喪服に徳利から酒が滴り落ちるシーンのミクロな描写の切れ味に思わず身震い。兄貴から元彼女がなんでガソリン入れてるのか聞き出したジョー君は、法事のあとスタンドにとって返す。兄貴はジョー君が東京に帰る前に、彼女と三人で小さい頃家族で出かけた渓谷に行こうとしきりに誘う。どうも彼女を遊びに誘い出すのに口実を探してる風情だ。兄貴と彼女の仕事ぶりを見て、過疎地で女に縁遠いとおぼしき兄貴がどうも彼女にホの字なのを一瞬で見て取ったジョー君ではあるが、あくまで自分の欲望には正直なダメ男。彼女の仕事終わりを待ってまんまと連れだしたジョー君、彼女の暮らしにやり手ホストのように手馴れた探りを入れて行く。自己実現の為にとっとと田舎の人間関係を捨てたジョー君と、口うるさい親父の下で黙々と家業をこなしてきた兄貴、女に対するアプローチが同じ筈が無い。母親が再婚して実家を出て一人暮らしをしているという彼女の部屋にまんまと上がりこみ「どうすんの俺」なんて眠たい葛藤は一切抜きで早速再会の一発を決めるジョー君。東京暮らしでテンポアップしたジョー君の口説きに翻弄される彼女…。だが出すもん出してスッキリしたジョー君が部屋を見渡すと殺風景な部屋のベッドサイドにジョー君のオシャレ写真集が。のみならず彼女は手料理を作りだし、キライな食べ物までしっかり記憶してる始末。急に空気が重たくなるのを感じたジョー君は手料理に箸もつけずにそそくさと退散。午前様で家に着くと、まだ部屋に明かりが点いていて男やもめの兄貴が洗濯物をたたんでる。後姿のままの兄との会話シーンの不穏な空気が、兄弟の運命を暗示する。翌朝素知らぬ顔でグループ交際を決める三人。渓谷で兄貴は水に漬かってはしゃいでる(かのように振舞ってる)が彼女の方は東京で輝くジョー君と田舎で埋もれて行く自分の人生を真剣に省みてるばかりでリゾート気分ゼロ。「アタシも一緒に東京に行けば良かった」てなこと言われてジョー君の重力も青天井。「クソしてくる」とつれないにも程があるゴマカシフレーズ残して、彼女の前から退散。さして興味がある風でもない野の花を撮影して時をやり過ごすため、渓谷にかかる吊り橋を対岸に渡ったジョー君。気持ちの整理がつかない彼女はジョー君を追って吊り橋へ。照之兄さんも彼女を追う。橋の上から対岸に呼びかける彼女だが、川の轟音で声がとどかないのか、聞こえない振りしてるのかジョー君は無反応。ここで照之兄さんが橋の上の彼女に追いついてなにやら押し問答、その様子に一瞬目をくれるジョー君だが、撮影に戻りもう一度目を上げると橋の上にたたずんでるのは兄一人。橋の上で呆然とへたり込む兄の元にかけ寄ると彼女が転落したのだという。数時間後死体で発見された彼女は当初老朽化した橋から事故で転落でしたのだと思われたが、突如兄が警察で「自分が落とした」と自供をはじめて事態は急転直下する。逮捕された兄は精神的ショックからか、正体を無くしどうにも発言内容が要領を得ない。裁判を通じて兄の無罪を勝ち取ろうと奔走するジョー君だが、兄貴の方はどうにも投げやりで、大体事実を口にしてるのかどうなのか一向に分からない。実直だけが取り柄で、扱いやすい男だと舐め切っていた兄貴の複雑怪奇な屈折した人間性に直面して、驚愕するジョー君。かくいうジョー君も彼女と事件前夜一発決めたことは兄貴に黙ったままだし、転落の瞬間を見たのかどうかも定かならない。この映画後半は法廷劇になるが、まあいわゆる「羅生門」方式と言いますか、それぞれの立場によって幾通りにも違う真実を、紐解いてるうちに何が事実で何が事実でないかますます解らなくなってくる。兄貴と彼女は橋の上でどんな会話をかわしたのか?そもそも兄貴と彼女の関係はほんとのとこどうだったのか?面会室で投げやりに振舞う兄貴の真意は?ジョー君は本当に転落の瞬間は見ていないのか?兄貴が結論として法廷で語った状況は事実なのか?刑事裁判としての結論は下されるが、彼女が死んだ以上真実は闇の中だ。映画は最後もう一度、兄弟の関係修復に焦点して幕を閉じる。思えば事件そのものの顛末も、ラストの意味も観客に委ねられてる作りだ。ただ拘置所の面会室での兄弟のぶつかり合いがキツイもんだっただけに、ラスト近く母親の形見が兄弟を結びつけるという作りはちょっと甘口過ぎるようにも感じました。まあ最終カットの兄貴の表情は必ずしも和解を表してるわけでもないのですが。やっぱり複雑・・・。こういう難解でも説明過多でなく、なおかつ観客への信頼の上に成り立つ脚本と言うのは日本の映画ではなかなかありませんな。人物描写でのミクロなこだわり(彼女や兄貴の部屋のリアルさ!)と言い、アイデアも満載で大変監督の才気を感じる映画でした。ナンパなジョーくんのリアルなダメ男っぷりや、田舎の彼女の鬱々としたおもーい感じを無常観タップリに描写するところが乾いていて嬉しい。頭のイイ女の人って男にも女にもキビシイんだよなあ.検事がキムキム兄やん、刑事がピエール瀧、裁判官が田口トモロヲという公務員チームやガンコ親父役の伊武雅刀さん、その弟で弁護士役の蟹江敬三さんとキャスト陣も大変よろしかったです。余りにも報われないファム・ファタル役の真木よう子さんはちょっと田舎のガソリンギャルとしては美人オーラが濃すぎでしたが、あんまりリアルでもジョー君の行動が不自然に見えるし難しいところか。
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今更ですが今年前半読んだ本でおもしろかったものの感想など。
『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』四方田犬彦(晶文社)
良く考えりゃ今まであんまり無かったアカデミック且つ詳細なブルース・リーの評伝兼分析書。売れっ子子役だった幼年期から彼の映画キャリアを説き起こしていく手順は丁寧そのもの。青年期の香港映画ではジェームスデイーンのような繊細な不良少年役が得意だったのだという。ドイツ系とのクオーターだった為に中国武術界では異物扱いされ、さりとてアメリカでもケンカの強いイロモノ俳優としてしか扱われなかった為に、成功を目指してド外れた自己鍛錬へと己を駆り立てて行くリー師父。精神修養へと変質していた中国武術を格闘技として解釈しなおし、次々と実戦向きの技術を取り入れる一方で東洋的な精神性を備えた武術映画作りを目指すという自己矛盾こそがリー師父の魅力。生意気なのか謙虚なのか?争いは好まないのか好戦的なのか?東洋的な神秘主義者か西洋的な合理主義者か?フィルモグラフィーを通して激烈な自己矛盾に満ちたキャラクターを分析する論調は説得力たっぷり。敵を倒した時のいわく言い難い表情にもいろんな思いが乗っているんだと思えば納得だ。「ドラ危機」以降の後期作品論では海外雄飛した中国人の運命に対する思いや、西洋との葛藤、女性忌避と唯我独尊的うぬぼれについての分析等々興味深い切り口ばかり。中国語圏のみならずアメリカ、ヨーロッパから中東でまでヒーローとなったリー師父。マイノリテイにとっては西洋人を倒す開放の象徴として、西洋人にとっては神秘的な秘法を駆使する武術の達人として、ともに絶大な人気を博すことが出来たのは彼が二つの文明の境界線上にいたからこそなのである。本書巻頭に引用されているアジア映画研究の大御所佐藤忠雄のリアルタイムでの頓珍漢なブルース・リー批判に呆れました。ヤナ奴だねえ。
『野中弘務 差別と権力』 魚住昭 (講談社文庫)
今じゃ四分五裂して息の根を止められてしまった感のある旧田中派の最後の輝きを支えた野中弘務さんの評伝。今や与党も野党も(総裁選候補は三人とも)二世議員ばっかりだが、野中さんは被差別部落出身という逆境(国鉄職員時代には差別事件の被害を受けている)から総理の一歩手前まで上り詰めたというド根性の人。「わしは肉食のハトや」という自己分析は余りにも有名であるが、強面の保守の領袖でありながら生涯反戦・反差別の人でもあったという「昭和の男」である。情報戦と人身収斂術で京都府議会で頭角をあらわし、絶対不利の状況から逆転でなんと57才で国会議員に初当選。自民党が野党になった細川政権下では池田大作証人喚問をちらつかせ創価学会の政教不分離振りを攻撃して揺さぶりをかけ、自民党の制御の効かないNHKの島会長(通称シマゲジ)を女性問題で追い落として海老沢会長(おなじみエビジョンイル)を据え、なんとビックリ55年体制を踏み越えた自社連立の村山内閣を実現して政権を奪回と、小沢一郎とは一味違う切れ味を見せて政界のキーマンとなっていく。記録的低支持率だった、小渕→森政権下では、あんだけボロクソ言ってた公明党や小沢一郎と手を組んで自民党政権を維持し、沖縄サミット実現というウルトラCで基地問題に一石を投じ、「加藤の乱」ではポストやカネをちらつかせて鎮圧。だが結局自分が作った小選挙区制や自公連立によって息の根を止められてしまうのはなんとも皮肉。郵政国会では「毒まんじゅう」発言してたが何のことはない「加藤の乱」のときに自分がやった手法を学習した小泉陣営に同じことをされてしまったのだ。政界引退の際、麻生太郎の差別発言に怒りの反撃を撃ち込むシーンが圧巻である。麻生太郎だけは総理にしたらイカンなあ。昔は憎らしいけど面白い怪物揃いだった自民党も、山本一太やタイゾーや片山さつきみたいな見るからにイタイ人や二世のぼっちゃんばかりでなんともコクが薄くて悲しい。「ゼネコンとネオコンしか選択肢がないのが日本の政治の不幸」という田中康夫ちゃん(知事選は郵政国会で失脚した出がらしのゼネコンジイサンに負けてしまった)の言葉に深く納得してしまいました。
『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』木村元彦(集英社インターナショナル)
今じゃニュース番組で何万回も引用されてすっかり有名になってしまったオシム本。この本はサッカー好きの間では昨年秋の出版直後から話題であったが、私は二月くらいに読みました。そん時は「この人が代表監督になってくれたら良いのになあ」くらいに思ってたが、ほんとに代表監督になってしまった。此度の代表監督就任は日本人のサッカー観自体を引き上げるようなポテンシャルを持った事件だと思います。選手時代には東京オリンピックでの来日経験もあるというオシムさん、旧ユーゴ代表監督時代のイタリア大会でのPK戦裏話は壮絶。民族主義を無責任に煽るマスコミとその後の空しい内戦への怒りと悲しみの中で、オシムさんは抗議の意味も混めて代表監督を辞任する。氏の凄いところは波乱どころじゃない激動の人生の中でも、サッカーを愛し、係わったチームや選手を確実に変える手腕を発揮するところ。だが決して戦争がもたらした人生の変化を肯定的には語ろうとしない。「町中に水も電気もなく、厳しい冬には凍えるしかなかったあの頃のサラエボで、家族は無事生き延びた。人々は私の話になれば、良かったね、素晴らしいという美談にしてしまう。しかし、そんなものではない」「そういうものから学べたとするなら、それが必要になってしまう。そういう戦争が…。」という言葉もまたオシム語録。よく「サッカーは(または「W杯は」)戦争だ」なんて言う人いるがオシム監督なら「全然違うもんだ」というでしょう。とかく仕事であるサッカーには厳しいオシムさん。「自分の仕事を生きろ」という言葉は耳が痛いですなあ。カルロス・ゴーンやオシムさんがいうと許容されることでも、日本人が言うとボロクソ言われるんだろうなあ。トルシェは若いからなのか散々生意気だと言われたがオシムさんの方が発言内容は厳しいぞ!今は賛美一辺倒のマスコミもいつ手の平を返すやも知れませんが、オシムさんにとっては屁のカッパでありましょう。日本のサッカーを質的にも予算的にも支えているのは代表の試合だけ見る気まぐれなテレビ視聴者でなく、Jリーグのスタジアムを埋めているサポーター達で、そのことを良く知っているオシム監督は選手選考でも早速良い仕事されてますね。サッカー好きでなくても、なんとなくオシム監督の人物像が気になった人でもこの本読めば、サッカーに興味が沸くこと確実です。これは良い本ですよ。
『陰謀と幻想の大アジア』 海野弘(平凡社)
第2次大戦前後「自分が何人かなんてもうどうでもいいわい」とばかり、世界地図に線を引くような大雑把でデカイ夢に命をかけた日本の陰謀野郎達の夢の記憶とも言うべき本。中央アジアにナチスから逃れたユダヤ人達の自治区を作ろうというアジア版イスラエル建国計画、名付けて「フグ作戦」(金を持ってるけど危険なユダヤ人は、美味しいけど毒があるフグに似てるというのが命名理由だそうな)、ハンガリーと日本がツラン民族という同祖だという前提(根拠は言語論!)でオセロゲームのようにユーラシア大陸を挟んで征服してしまおうというツラニズム論(余談だがイナバウアーのあの人が踊った「トゥーランドット」という曲はツラン人のお姫様の歌)。なぜか朝日岩波系の人にも人気の「騎馬民族説」も日本の満州占領政策の結果生まれた適当理論だと言うお話。とかく占領時代の日本人にとって、大陸体験というのはなんで牧歌的でのんびりしてるのか?一方南方では大東亜共栄圏の拡大の為に現地に飛んだはずの人間がナゼか日本政府のクビキから逃れて浪人のようにゲリラ戦を展開してたり、目的も定かならんスパイ活動に命をかけたり。日本政府の方針もバラバラでみんな結構それぞれが感じたままの大陸の夢を追っている風情なのだ。「シルクロード」の項では、『さまよえる湖』を発見した冒険家ヘディンのスポンサーがナチだったという仰天話まで飛び出す。彼はスウエーデン人だがナチ信奉者だったらしい。外見的にはロマン溢れるシルクロード探検は、実は英独露の中央アジア支配をめぐる「グレートゲーム」の代理戦争だったというのである。当時中央アジアの精密な地図は、世界戦略に欠かせないモノだったのだと言う。日本も遅れ馳せながらグレートゲームに参戦、なんと大戦末期にはチベットにまで潜入したがついた頃には戦争は終わってたのだという。戦後シルクロードも騎馬民族説も政治的目的を隠蔽したロマンチックな物語になってしまったが、本来は侵略戦争とワンセットで語られるべきもんだというのが海野先生の主張。「戦時が抜けた日本近代史など歴史として成立しない」と言うわけである。今じゃ不毛な二項対立になってしまった日本の戦争評価であるが、実は色んな立場の人が暗躍しては様々な戦後を夢見ていたということである。被害でも加害でもない陰謀論という立場からの第二次大戦研究本であります。
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自分は子供時代、早く大人に成りたかったもんである。子供向けの演劇や本、映画みんな嫌いだった。学校の演劇鑑賞の感想を「大袈裟で見ていて恥ずかしくなった」と正直に書いたら感想を書きなおしさせられた。感想を「書きなおす」ということは先生から見て「モノの感じ方が間違っている」と言う事なのだろう。「子供の感性は独特ですからね-」なーんて言ってる先生業の人でも、「子供らしくない態度」には厳しいもんである。まあ「子供らしい」という感覚も所詮大人から見た「子供らしさ」で、自分は添加物バリバリの駄菓子かじりながらウンコに爆竹刺して遊んでた奴だって、いざ自分が子供を持ったら無農薬の食品や宮崎アニメなんて無害なもんを与えるもんである。イジメが原因の自殺や不良少年のリンチ事件があると大人連中は「自分らの時代にはこんな陰湿な事件は無かった。子供の感性が変質している。」なーんて言ってるが、イジメや集団暴行は自分らの時代にもあった。たまたま被害者が死ななかっただけの話である。残酷な映画やゲームもみんな大好きだった。いや今でも好きだ。天使のような子供もやがてチン毛も生えて、汚い大人になる。子供の感性は、大人にとっては想像するしかない世界なのである。
「ブラザーズ・グリム」が今二つだったテリ-・ギリアムの新作「ローズ・イン・タイドランド」はなんとビックリ子供映画。アメリカの新鋭女性作家ミッチ・カリンさんの作品を映画化したのだそうな。主人公の少女はジェライザ・ローズ12才。日本映画で少女が主人公と言えば大林宣彦や宮崎駿やその道を極めすぎて捕まってしまった今関あきよしさんなんて求道者達の独壇場であるが、ギリアムの目線は少女崇拝とはちと違う。元ロックスターのパパと元グルーピーのママの両親が揃ってジャンキーというこのローズちゃんは両親が血管注射を決める時には流れるようなチームワークでサポートを決めたかと思えば、ゴミタメのような部屋で頭部だけになったバービー人形に話しかけて一人遊びに没頭するというハイパーリアルな日常を健気に生きるエクストリームなじゃりん子チエともいうべきしっかり娘。。ある日おっかさんがODであっさりとお亡くなりになり、父(「ビッグリボウスキ」のデュードそのままの快演が嬉しいジェフ・ブリッジス)と二人で逃げ出すことになる。草原の中の廃墟となった父の実家に逃げ延びた二人だが、ほっとして一発決めたパパはこれまたODで死んでしまう。天涯孤独となったローズちゃんだが、パパの死が理解できないのか、認めたくないのか、父の死体との奇妙な同居生活をはじめる。食料は底をつき、父の死体は腐臭を放つという不憫極まりない展開だが、ローズちゃんは持ち前の妄想力を生かして一軒屋や草原での一人遊びを満喫し、やがて奇妙な隣人と邂逅する。この隣人が蜂に眼球を刺された片目の姉と頭がちょっとアレ(作中スクールバスの事故が暗示される)な弟というワケアリにも程がある姉弟。この世の果てで出会った少女と奇人姉弟はやがてお互いの運命に化学反応を起こして、壮絶なラストシーンへと大暴走!ギリアムは死体をサカナにしたギャグ、少女と大人の恋、ミイラ作りと、観客置いてけぼりでワルノリをエスカレートさせて行く。だがこの部分の描写はギャグとしても相当重苦しく、悪趣味をひけらかしては鬼畜系なんて言われて喜んでる若者とは相当違う達観振り。果して映画をヒットさせる気があるのかも怪しい。だがラストシーンも含めてどう考えても不憫極まりないローズちゃんの人生を、あくまで子供の目線から成長物語として描いてるところはさすが信用できる!悲惨な子供を不憫に描いちゃ当たり前。結構低予算の作品だと思いますが、ビジュアルも素晴らしく堪能致しました。ギリアムはまだまだ才気の塊、これは傑作です!
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トム・クルーズが「スパイ大作戦」の権利を押さえて、本人主演で映画化すると知ったときは大変感心したもんである。スター俳優としての立場に甘んじることなく自分向きのシリーズになりそうな企画を立て、監督にデ・パルマ、共演者にジョン・ボイトを持って来るという辣腕振りには唸らざるを得なかった。出来た作品はまあ期待したほど面白くは無かったが、デ・パルマが出したかったヨーロピアンな国際スパイものの空気にはトム君は爽やかアメリカ人丸出し過ぎて合わなかったようだった。2作目はガラリと趣向を変えて、監督にジョン・ウーを持って来るというまたも映画ファン泣かせの選択をかましたが、なぜか単なる能天気なアクション映画が出来てしまい、ウーにとってもキャリアで最低の駄作になってしまった。おんなじ連続テレビの映画化の「チャーリーズエンジェル」が針の振り切れたバカっぷりで爆走しているのに対し、どうもMIシリーズは抜けが悪くて宜しくない。「宇宙戦争」や「コラテラル」は面白かったので仕事の選び方は間違ってないはずだが、自身の企画がもう一つとあっては心中穏やかでなかったろうトムさん。三度目の正直の「MI3」は入魂の一作で、シリーズで最高傑作との前評判だったのだが…。私的にはこれは大変困った映画でした。やたらと家族愛、夫婦愛を強調しまくるのだが、非情なスパイものとしては無理があるんではないでしょうか?こんなのはスパイ映画ではなく単なるデート映画だ。女たらしのジェームス・ボンドとは違うところを強調したいのかもしれないが、なんだかトムがいい人を演じたがってるだけのような気がしてきて…。スパイが家庭人で愛妻家って見てる人は嬉しいかなあ?取って付けた様にアメリカの独善的外交政策を皮肉るのも余計だし、肝心のインポシブルなミッションも途中からディテイルぐちゃぐちゃ。もう一つのスパイシリーズ、マット・デイモンのジェイソン・ボーンものと比べると、クオリティの差は明かだと思うのですが。まあこのシリーズはもう見なくてイイか。
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現代の日本ではロックバンドというのは夢や希望や努力の大切さを歌う、健全な音楽として世俗化しているが、一昔前はオッサンオバハンから見たら得体の知れないカルトのような存在であった。例えば2時間ドラマなどで、マジメ一徹な父親が不良化した娘を探して繁華街をさまよい、地下のライブハウス辿り着く。入り口で止められ、怪訝な表情の受付係から喧嘩腰でチケットを買って店内に入ると思わぬ爆音に顔をゆがめるお父さん。鋲打ちの皮ジャンやビリビリに裂けたシャツを着た若者たちの中で明らかに浮いているコート姿のお父さん、なんとかバーカウンターでタバコすって長髪野郎と話してる娘を発見し「何やってるんだ!帰るぞ!」と物凄い剣幕!一瞬ひるんだ娘も「関係無いでしょ帰ってよ!」と押し問答。「今までアタシのやることなんか無関心だったくせに今更何よ!お父さんなんか世間体気にしてるだけでしょ!」と痛い所を突かれた親父は思わず「馬鹿っ!」と平手打ち。なーんてシーンにおいてステージに立ってるのは大抵、長髪+皮パンのハードロックバンドであった。世間のコンセンサスが「ロックバンド=長髪のHR・HMバンド」という時代が70年代から90年代まで長いことあったのだ。私と同世代(30代中盤)のバンドマン連中も大体音楽をはじめたキッカケはフォークかヘビメタである。ヘビメタは極東の島国においても大都市から離島まで浸透するような伝播力を有した時代があったのである。かくいう自分はあんまりヘビメタに夢中になった事はない。根が飽き性なので、なにかにつけて大袈裟なもんは苦手なのだ。しかし昨年の「メタリカ 真実の瞬間」に匹敵するヘビメタドキュメンタリーが登場とあっては見るしかない。「メタル ヘッドバンガ-ズジャーニー」はカナダの人類学者の青年サム・ダン君が、世界中を旅して大好きなヘビメタの歴史と各国事情を紹介するとともに、人類学の手法で「なんでメタルファンは嫌われるのか」と自虐的視点に基づいて考察するという大変面白い映画。まずはヘビメタの起源から、再分化して全体像が掴みにくくなっている現在のメタル界の状況を色んなミュージシャンに取材して紹介し、メタルをメタルたらしめている悪魔崇拝や神秘主義、ダサいファッションやカップルカルチャーには縁遠いファンの男同士の結合を考察して行く。その内容は「まことちゃん」の「さばら!」みたいなメロイック・サインの起源(発案者ロニ-・ジェイムスの異常な体つきに感動!)から、過激悪魔崇拝バンドまでとにかく興味深いネタばかり。なんとびっくり今一番過激なヘビメタを生んでるのは北欧ノルウエー。拳銃自殺したメンバーの遺骨をネックレスにしてるバンドとか、教会に連続放火して捕まったバンドなどギリギリの人達が次々登場。アメリカ人がエンターテイメントでやってる悪魔崇拝を大マジでやってるのだ。御当地には元々バイキングの文化があって侵略者の宗教であるキリスト教に反感があるらしい。ほんと世の中知らないことだらけ。劇中何度も語られるのは「メタルはライフスタイルミュージック」だということ。日本じゃヒット曲が入ったコンピーレーションしかCDが売れないという御時世、生活を彩るBGMとして消費されるポップミュージックばかりだが、ヘビメタは通過するもので無く一生付き合って行く人生の友だと言うのである。ロックに夢中になる若者はもともと社会に馴染めないと感じるティ-ンエイジャ-が多いのであるが、サム・ダンくんの「孤独な若者でも、スミスやリプレイスメンツを聞いて『自分が孤独なのは自分が変わってるからだ』と思う若者と『俺をつまはじきにする世間がおかしい』と思うメタルキッズがいる」という分析に思わずヒザを打ちました。鋭いぞダン君!私はスミスもリプレイスメンツも大好きでした…。ナルシストなのかしら?
と色々ヘビメタ分析を見てたらプロレスとの共通点が多いのを発見。マチズモを前面に押し出す男同士のツルみ文化で、ファンが実演者を崇拝しており、グッズがダサく、好きだと言うと女にモテ無い。だけど一度好きになると辞められないそんなライフスタイルカルチャー。ヘビメタという音楽の魅力は未だにやっぱり良く解らないのであるが、ヘビメタファンのことは少し好きになりました。ファンの愛情というのは暖かく美しいもんです。
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もう三年前旭川に出張に行った時のこと、手違いで仕事にポッカリと空き日が出て、同僚と街をふらついていると、ホッカイドウ競馬の宣伝をしてる一団に出くわした。私一応西日本の競馬場は今は無き中津や益田も含めて全場制覇してる男(バカ)である。そういや旭川にも競馬場があったなあと宣伝している小柄なオジさんから宣伝テイッシュを受け取り、書かれている日程表を見てみると今は他場での開催中で旭川は場外発売。ただやってるのは平地競争ではなくばんえい競馬である。ばんえい競馬ってのは1トン近い巨大馬がこれまた1トン近い重りを載せたソリを引いて坂道を超えるというデタラメにダイナミックなバクチ。ばんえい未体験で興味津々な私はテイッシュ配ってたオジさんに「馬券はどこで買えるの?」と聞くと繁華街にほど近い場外馬券売り場を教えてくれたが「是非開催の時に本場の方に来てください」と仰る。今は出張中で今日しか時間が無い旨告げるととても悲しそうであった。オジさんは多分競馬関係者で、いずこでも経営が厳しい地方競馬のこと、入場者増加の為に自ら街頭に立っておられたのであろう。聞いた道順通り見知らぬ町を15分くらい歩くと、巨大なカマボコ型の体育館のような場外馬券売り場に着いた。中に入ると地方競馬はいずこも同じ、ましてド平日の昼間と言う事もあって、客は寒色オンリーのファッションに身を包んだジイさん連中が僅かな年金から搾り出した百円馬券を握り締めているというお馴染みの世界。穴場は1階で2階に上がると広大な休憩所で、オバハンがしどけなく店番してる屋台では煮詰まって真っ黒になったおでんが茹っている。なんちゅうか鉄火場には程遠い癒しの空間で、拾った予想紙(地方競馬の予想紙は非常に高い)眺めながらビール飲んでると心底ほっこりと落ち着いてくる。パドックなんか見てもどうせ解らないので、クラス落ちのトップハンデの馬から適当に流すとなんと15倍見当の馬券がいきなり敵中!動物虐待だなんて批判を受けることもあるというレースも重量感があって新鮮。自分が買ってる馬の足が止まった時の焦燥感と言ったらない。残りの2レースくらい遊んでるうちに勝ち分は溶けてしまったが、ばんえい競馬には非常に好印象を持ったものである。
そんな(?)ばんえい競馬を題材にした映画があると聞けば見に行かない訳にイカンでしょう。その作品は「雪に願うこと」。昨年の東京国際映画祭(まだやってたの?)でグランプリを受賞したのだという。物凄い豪華キャストだが、閉鎖社会での人間模様を描いたいわゆる「小さい映画」である。IT企業(通販、輸入代行サイトか?)を経営していたが下手を打って故郷に逃げ帰ってきた弟(伊勢谷友介)が、土にまみれて体を使って生きているばんえい競馬の調教師の兄(佐藤浩一)によって再生する、というなんちゅうか、額に入れて飾っておきたいような「良心的日本映画」。なので、当然兄が倫理的にも肉体的にも圧倒的に正しく強い。IT業界=濡れ手でアワの虚飾の世界にいた男が、ばんえい競馬=生き物相手・早起き・肉体労働の時代遅れな労働環境で本来の自分を取り戻すというストーリーの中に、故郷を飛び出して以来再会した母(草笛光子)が施設に入っていて自分のことが解らないというシーンや、不幸な生い立ちを背負った女性騎手(『頑張ってる若い人』専門女優の吹石一恵)との恋(肉体関係は当然ナシ!)、軽い知的障害を持った旧友との友情というこれまたなんちゅうか正しいシーンの連打を盛りこんで、ほんと手堅い作り。ラストシーンもこれ見よがしな盛り上げもなく、日常の一コマとしてサラリと語られていて憎いくらい。こんな正しい映画のなかで、バクチ場での覚悟を説いてひとりダークサイドを体現した山崎努さん演じるズルムケ親父と、その愛人でありながら厩舎でおさんどんしつつ兄ともデキてるというワケアリの子持ち女を演じたキョンキョンが抜群に素晴らしかった。根岸吉太郎監督はあるインタビューで「衰退産業としては地方競馬より日本映画の方が先輩」だと言うような発言をされてましたが、ばんえい競馬と日本映画は気が合いすぎというか、題材と表現する側がマッチしすぎという感じも致しました。勿論マジメに作られた良い映画であるし、こんな映画があってもいい。ただ日本映画が「踊る海猿が世界の中心で部活をがんばる」みたいな映画と極端にマジメで実直な映画に二極分化してるようでその辺がいかにも心配です。大きなお世話ですが…。「殺人の追憶」のホン・ジュノの新作が怪獣映画だという仰け反るような大胆な展開が、日本映画にもほしいと言うのは贅沢な注文でしょうか?
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東北に出張行ったり、サッカー見たりが忙しく更新が滞りまくりの私のブログ。知人からMIXIというもんも紹介していただいたのですが、そっちもまあほったらかしで廃屋のようになっております。今更乍ら、五月に見た「ニューワールド」の感想を…。テレンス・マリック監督の前作「シン・レッド・ライン」は戦争映画でありながら、正直ストーリーなんか理解出来なくてもええわと思わせる美しく詩情溢れる映像詩で、20年遅れのニューシネマと言うべき傑作でありました。こたびの新作の「ニューワールド」はディズニ-映画にもなったアメリカ先住民の気高いお姫様ポカホンタスの悲恋の物語。マリック監督は相変わらず格調高く、美しく、何が言いたいのかサッパリ分らん映像詩でたゆたうようにゆったりと物語を紡いで行く。新天地で一発当てるべェとスケベ心を胸に抱いたイギリス人入植者の一団がアメリカ新大陸に上陸するシーンから映画は始まる。掘建て小屋を作って金を掘る準備をはじめる彼らであるが、生活は衣食住全てがゼロからのスタート。「北の国から」の五郎さんや清澄山の大山倍達がヒルズ族に見えるようなサバイバルライフが待っている。入植者集団のリーダーのジイさんは、イギリスから来る航海でなんやら揉め事を起こして船底に拘束されてたジョン・スミスという男を先住民との交渉役に任命し「諸々お前が地元にナシを通しとくように!」と無責任きわまり無い指令を残して自分はお国に帰ってしまう。まあアメリカくんだりまで出張ってくるくらいだから元々山っ気も有るに違いないスミス君、地元の先住民のボスにアイサツに行く事に。謎の支配者を訪ねて川をさかのぼる船、ジャングルの夕景に重なる内省的なモノローグ、まるで「地獄の黙示禄」だ。勿論ジャングルは先住民の縄張りで、スミス一行は終始監視され、村に近付いた瞬間拘束されてしまう。この村に居たのが酋長の娘ポカホンタス。「殺しちゃぁかわいそうよ」といったかどうか知らないが、心優しい娘の進言に、ガンコ親父もつい情にほだされてスミスは客人としてもてなしを受ける事に。旅先での出会いだからって訳でもないだろうけど、スミスは彼女の美しい風貌と、純真な心にメロメロになる。一方彼女の方もちょっとワルそうな異国の男前に興味津々。ドラマチックな出会いに盛り上がる二人の恋。美しい自然と純朴な村人達に囲まれた、エキゾチックな若い恋人との三食昼寝色気付きのスローライフに「コイツが俺の乳ワールドか?!」とばかり本来の任務を忘れて、没入してしまうスミス。このイギリス人が聡明な若い娘に異国の風習や言葉の諸々を教えてくれるのはイイのだが、他にも色んなこと教えるもんだから酋長もちょっと困り顔。スミスの方も村に残してきた同胞達がさすがに気になり始める。酋長の説得もあって入植地にとって返すと、文明社会になってるはずの村は荒れ果て放題。農業も金鉱探しも空振りで村人はボロボロ、塀の外には恐ろしい(と村人が思ってる)先住民がウヨウヨいて出られない。まるで北朝鮮の国境地帯のような悲惨さ。留守番役のオッサンから「てめーアッチで宜しくやってたってホントかよ!」と詰め寄られたスミスだが、このオッサンがヒステリー気味で人望が無いのが幸いし色呆け問題も巧くスルーして、まんまと村の新しいリーダーに納まるスミス。がそれはそれで茨の道で、イギリスからの船が帰ってくる春までなんとか村人ともども生き延びねばならない。一行は砂を噛むような貧乏暮らしに耐えるが、やがて冬が来て食料も燃料も底を尽いてしまう。滅亡は時間の問題かと思われた雪の夜、入植地の塀の外に先住民の人影が。すわ襲撃かと思いきや、なんとポカホンタスが酋長に内緒で宵闇にまぎれて食料を届に来てくれたのだ。一度成らず若い娘に命を救われてお世話になりっぱなしのスミス。現代なら「こんなに損得抜きでダメ男に尽くしてちゃいけないわ」と余計な説教かます女友達が出てきそうだが、古来より愛とは見返りを求めないことだとも申します。何とか生き延びたスミスはポカホンタスと再会。二人の禁じられた恋はますます燃え上がるが、白人と先住民は元々利害が対立してる(勿論勝手に住みついてる入植者が悪い)んだからいつの日か衝突せざるを得ない。小競り合いの果てについに全面抗争に至る入植者と先住民。ポカホンタスはスミスに父親の攻撃の決断を知らせるが、スミスも入植者のリーダーとして武器を取らねば成らない。先住民は地の利を持って勇敢に戦うが、入植者の近代兵器の前に後退。酋長は娘可愛さにスミスを生かした決断をリーダーとして後悔し、部族の長のけじめとしてポカホンタスを勘当し、先住民側は彼女を捕虜として入植者に差し出すことで抗争の手打ちを図る。入植者と先住民の不毛な殺し合いの果ての大量死とポカホンタスの勘当に深い責任を感じて抜け殻のようになってしまうスミス。春が来て本国から船が帰ってくると、入植者の生活も多少安定し、スミスも功績を称えられる。故郷を喪失したポカホンタスは、捕虜として暮らし始めるが、そのまっすぐな人間性から皆に愛され入植地に馴染んで行く。英語を学び、アニマル浜口風のワンショルダースタイルから西欧風のドレスに服装も変わってしまう彼女を見て、複雑なスミス。もとはと言えば自分との出会いが原因で故郷の素朴な暮らしを破壊され、否応無く文明と出会ってしまった彼女は果して幸せなのか。そんな葛藤するスミスに新たな勅命が下る。国王の命令でインド植民地への航路発見という任務を与えられたのだ。アメリカで彼女と顔を会わせて暮らす辛さに耐えられなかったのか、「所詮出張先での火遊びだったのさ。俺は君に相応しい男じゃないぜ」とばかり彼女を置いて船に乗って去ってしまうスミス。眠っている間にスミスが去って悲しみにくれるポカホンタスはしかしスミスとの再会を確信し、気高く生き続ける。ここで終われば悲恋のメロドラマなのだが、その後のポカホンタスの人生こそが「ニューワールド」というタイトルの真意でもあった。スミスにとってアメリカ先住民の世界が「ニューワールド」であったように、彼女にとっての「ニューワールド」となったイギリスの文明。スミスが去ったあとイギリス人貴族と結婚して子供をもうけ、新世界の融和の象徴となった彼女はイギリスに招待され国王にまみえるまでになる。出会ったときは原生林に裸足で立っていた彼女は、イギリス式庭園でドレスを着てスミスと再会する。彼女置いて去った負い目からか何故だかバツが悪そうなスミスに対して、ポカホンタスはここでも気高く威厳に満ちている。お父さんの育て方がよっぽど良かったのでしょうなあ。彼女の人生はまあ事の善悪は置いといて、イギリス人と出会ったことで劇的に変わってしまった。戦争や殖民という状況でしか異文化と出会えない西欧文明は悲しいが、それでも出会ってしまった人間には何かしらの交流があるはずだという希望を託さずにはおれないマリック監督。まあ実際二人の恋はこんなに清い恋だったのかは、私多いに疑問はあるのだが、そんなイジワルな目線を送るのがイケないことのような気分になる風格がこの映画にはある。こう言う音楽もセリフも排して、徹底して映像に語らせる映画は最近特に貴重。今作は30年遅れのニューシネマでした。
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ボクシングというのは大変創作の題材になりやすいスポーツである。個人競技なので選手のキャラクターに焦点を絞りやすくゲームのルールもみんな知ってる、何より試合中アクションが途切れることがない。こんな映画向きの題材は無い。いくつもの傑作ボクシング映画で繰り返し描かれてきた、貧困の中に暮らす不器用でつぶしの効かない実直な男(女)が、自己の存在を賭けてリングに上がるというお馴染みのパンチライン。そんなボクシング映画の王道設定を全てぶち込んだコテコテド根性拳闘映画が「クライング・フィスト」。あらゆるボクシング映画のクリシェをぶち込んだこの映画が過去のボクシング映画と異質な所は、戦う二人のボクサーがそれぞれ主人公であるところ。戦う二人はなんの因縁も持たずにただそれぞれの事情を抱えてリングに上がるのだ。主人公はかつては栄光をつかんだアマエリートボクサー(アジア大会銀メダルという絶妙の設定)の中年と、少年院でボクシングを憶えた野獣のような不良少年。中年ボクサーの方は引退後の商売で下手を打って妻子にも捨てられ今は繁華街で殴られ屋をしている。これは新宿の殴られ屋さんのドキュメンタリーをテレビで見たリュ・スンワン監督が取り入れた設定なのだという。一方の不良少年はキレると全く抑制の効かない野獣タイプ。後先考えずにやった事件で少年院にぶち込まれ(差し入れのパンを便所で食うシーンがイイ)、獄中でいつも味方だった優しい父親の死を知らされ自分の愚かさを悟って号泣する。とここまでは「チャンプ」と「ロッキー」と「どついたるねん」を足した中年ボクサー対矢吹丈という図式。がそれだけでは飽き足らず、その上にそれぞれの家庭ドラマをトッピング。ダメな男二匹が自分のせいで壊れた家族の再生と己の人生のやり直しを賭けて裸一貫でリングに上がる姿を壮絶にコテコテなエピソードの連打で盛り上げ、怒涛の試合シーンへとつなげる構成はズルいくらいに泣かせ所満載。子供と老人の使い方の卑怯なことといったら無い。不屈の中年ボクサーを演じる韓国マゾ俳優の第一人者チェ・ミンシク(今作にも拉致されてタコ殴りにされるシーン有り)の憎めない面白オジさん振りは完璧だし、無口な不良少年の荒くれた心の中の純情を演じたユ・サンファンも素晴らしい。戦う二人の男が試合会場まで一切因縁が無いという設定が非常に良かった。凡庸な作劇なら何らかの偶然の出会いを盛りこんでるとこでしょうが、作りはベタでもその辺はストイック。亀田三兄弟の暴力ショー中継では「メンチきり」される異国の青年の事情などは一切説明されないが、実際にはリングに上がるものにはみんな理由や事情があるのが当たり前。ライバルがいてこそ輝くのがボクシング。アリにフレイジャーが、レナードにはデュラン、ハグラー、ハーンズが、辰吉に薬師寺が、畑山に坂本が、徳山に川嶋がいてこそ彼らは記憶に残ったのだ。戦う二人の事情に引き裂かれるというのも格闘技をみる醍醐味であります。
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近頃世間の風潮は若いことが素晴らしいと言う価値観一色。アイドルは低年齢化の一途をたどり、オバハンは年齢不肖美人オッサンはチョイ悪オヤジを志向、老人は健康食品やウオ-キングで長生き研究という「老化」=「悪」という価値観一色。東アジアの儒教文化圏にはもともと年長者を敬うと言う文化があったはずなのだが…。最近じゃすっかり悪徳リフォームやオレオレ詐欺、大阪名物引ったくりのターゲットとして若者に食い物にされる立場になってしまった老人。「畳と女房は新しい方がいい」というのは確かに一面真理ではあるのだが、垢がついた人間にも独特の魅力があるというのもまた事実。そんな老人の生き様を見せていただく映画は結構有る。「東京物語」「許されざる者」(以降のイーストウッド映画全部)「ハスラー2」「評決」「ストレイトストーリー」。「アイズ ワイド シャット」はキューブリックの底意地の悪いジジイ目線が嬉しかったもんだ。そんな傑作老人映画の系譜に加わる新たなが一本が韓国映画「送還日記」。「猟奇的な頭の中の消しゴムがバンジ-ジャンプする?」といった映画とは一味違う「オレ達の韓流映画」だ。劇映画の「シルミド」は北に潜入する韓国の工作員=北派工作員のド外れた鍛錬の日々と悲劇を描いた力作であったが、この「送還日記」は逆の立場の韓国に潜入した北の工作員=南派工作員の人々の国家に翻弄される運命を描いた映画。しかもご本人登場のドキュメンタリー作品である。この映画の語り手は監督でもあるキム・ドンウォン。貧民街に潜入してドキュメンタリーを撮影していた彼は、そこで福祉活動をしている神父から、長年の服役を終えて出獄した元南派工作員の移送を頼まれる。韓国の民主化によって北朝鮮への敵視政策が緩和し、刑務所で飼い殺しだった彼らは釈放されたものの、シャバには行き場がなく、神父の計らいで貧民街の一軒家で共同生活することになったのだ。彼らは韓国社会では『非転向長期囚』と呼ばれている。潜入した韓国で逮捕されてから30年間以上、軍事政権下の刑務所でずっと拷問を受けて、北朝鮮国家への忠誠を捨て自己批判する(そうすればすぐシャバに出れる。転向した人も作中登場する)ように迫られながら頑なに拒否してきたのだ。監督は小さいときにテレビで見た「反共ドラマ」(そう言う番組があったそうです)に描かれた北朝鮮スパイのイメージ(テロで国家転覆を狙う恐怖の存在)、悪名高い当局の拷問に30年以上耐えつづけたという事実などからエキセントリックな人物像を勝手に妄想してビビっている。そんな面々の共同生活なんて奥崎謙三先生が束になって住んでるようなもの。どんな御近所トラブルが起こるやらと実際会ってみると彼らはもうヨボヨボの老人なのだ。30年刑務所にいれば当たり前である。刑務所にいても韓国の事情にも結構詳しく、「殺人の追憶」の題材になった連続殺人事件の舞台の街(華城)の近くを車が通ると「ありゃー米軍の兵隊の仕業じゃ」「アメリカの陰謀だ」と冗談口とも本気ともつきかねる口調で分析したりして、監督を混乱させる。このなんとも食えない老人達の数奇な人生や人間性に惹かれて、カメラを向け始めたドンウォン監督。支援者や近所の人は彼らを「先生」と立ててるし、彼らも早起きして近所の掃除をしたり自立の為に職探しをしたり、たまに酒盛りやピクニックに行ったり、支援者と老いらくの恋を楽しんだりと非転向長期囚という物騒な異名とは裏腹の結構堅実且つ呑気な暮らし振り。勿論彼らはシャバに出てきて韓国社会に触れても熱心な金日成主義者である。酒を飲めば「金日成将軍の歌」を合唱するし、支援者のカソリックの神父から「聖書を進呈しましょう」と言われると「聖書は何回も読んでますから要りません。神父様もマルクスをお読みください」なーんてつれなく切り返したりもする。結構世話になってるのに、それとこれとは別なのだ。拉致事件の話をされると「事実無根だ」と怒り狂って否定する。が彼ら自身も政治や国家の都合で運命を翻弄され苦難を舐めてきた身であり、その思考を形作ってしまったのは30年にも及ぶ拷問つきのムショ暮らしのせいなのである。壮絶な拷問を励まし合って耐えたことで生まれた絆と信念が、老人特有のガンコさと絶妙な化学反応を起こして誕生したウルトラガンコ軍団に、監督も徐々にのめりこんで行く。が監督の事務所は国家転覆でも画策してると誤解されたのか当局のガサを食ったりするとばっちり。老人軍団はこのまま国家権力の監視を受けながら韓国社会の片隅で厄介ものとして生涯を閉じるのか…。ところが金大中政権の「太陽政策」で南北の政治融和が始まると、老人軍団の運命にも変化が訪れる。急激な南北融和ムードの中で老人達の本国送還を阻害する要因もなくなり、釈放から8年後の2000年に突如帰国が実現する。帰国を前に歓送会で韓国でお世話になった近所のオバちゃんに、ごみ拾いや漢方薬作りをして細々と貯めたお金で買ったダイヤのネックレスや指輪を送る老人の律儀な姿。やっぱりこの世代の人はキッチリしてる。突然結婚して韓国に残ると宣言して周囲を驚かせるものもいる。老人軍団はこの結婚を巡って大激論を交わすも、結局仲間の意思を尊重し手作りの結婚式で祝福する。帰国の際にもやっぱり一悶着があったり、やっぱり妥協を知らぬガンコ振りを発揮する老人軍団であるが、こんな生の意見のぶつけ合いがあるのも社会の活力。狡猾な若者に口先で貯金を騙し取られてる日本の老人達にも意固地なガンコ魂で逆襲してほしい。それでこそ高齢化社会にも活力が生まれようというもんです。
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自分が狂ったように映画を見始めた中学・高校時代(1980年代)は丁度モダンホラー映画の大ブームであった。私も当時の映画バカの例に漏れず「遊星からの物体X」「死霊のえじき」や「スペース・バンパイア」「エルム街の悪夢」や「サランドラ」、そして勿論サム・ライミの「死霊のはらわた」やリバイバル公開されたや「悪魔のいけにえ」に夢中に成った。「Vゾーン」なんてホラー映画の専門誌や、特殊メイクアーティストの仕事振りを紹介したテレビ番組で情報も溢れかえっていた。そんなモダンホラーブームの波に乗って紹介された映画作家の中で自分が一番夢中になったのがデビッド・クロネンバーグ、最初に見た作品は「ビデオ・ドローム」であった。殺人シーンが写っているポルノビデオを見たポルノ放送局の社長(ジェームス・ウッズ)の周囲の現実が変容し始めるというこの映画は、丁度ホームビデオがポルノ映画との抱合せ販売で爆発的に家庭に普及し始めた1985年に日本公開された(制作年度は1983年)が、公開前からホラー映画好きの間では半ば伝説化された映画であった。期末試験が終わった真冬の日、映画館に行くと平日の昼間で客は二人。暖房が効かずに薄ら寒い中で見た「ビデオドローム」は、頭でっかちの高校生にとっては「なんだか解らないが物凄いモンを見た」という事こそわかるが、全体像は到底理解不能な衝撃作であった。ポルノ、SM、スナッフビデオが意識だけでなく肉体まで変容させて、体に開いた穴にビデオカセットを挿入したり拳銃が手と一体化したりする描写の意味が童貞の(どころかオカン以外の女と日常ほとんど話したこともない)高校生に解るわきゃないわな。電流が通った粘土壁に縛り付けられたジェームス・ウッズを鞭で打ちまくるSMの女王様に扮したデボラ・ハリーがブロンディのボーカルであること知ったのは大分後である。以来クロネンバーグの映画は、冷たいようで暖かく下品なようで難解ないつも変わらぬ作品世界で一貫している。省略に満ちた緻密な構造の語り口、気色悪いいたずら心に満ちたビジュアル、血の通った肉体への拘りと突き放した無常観との同居、セックスと暴力の避け難い魅力によって運命を翻弄される登場人物、精神の変容が肉体にもたらす変化と肉体の変容が精神にもたらす変化の昂進から起こる悲劇的結末。どの映画見ても一緒と言えば一緒なんだが、やっぱりいつ見ても面白い!が名のみ高いと言うか「ザ・フライ」以来興行的な成功とは無縁なようで、最近では大傑作だった「イグジステンス」見に行った時も全国配給のGW映画ながら初日で客は男の一人客が5人(スーツ姿の30代サボリーマン風4人と私)のみ!しかしだだっ広い映画館でバラバラの席に座った五人の男には密かな連帯感が生じていたような…。そんな80年代育ちの映画オヤジ以外にも人気が広がって欲しいクロネンバーグ先生の新作が「ヒストリーオブバイオレンス」。コミック原作ものだそうだがまったくいつものクロネンバーグ映画だ。主人公は平和な田舎町でダイナーを経営する実直そうな男トム(ヴィゴ・モーテンセン)。少しトウが立ってるがキャリアウーマンで美人の嫁さんとかわいい子供二人の家族と暮らす平凡な男である。ある日トムのダイナーに二人の客がやってくる。この二人組は放浪生活を続ける強盗。その日暮らしのボンクラがトムの店を狙って場当たり的な犯行に及ぶが、トムはこの二人組を一瞬の隙をついて撃退し殺してしまう。恐ろしい犯罪に敢然と立ち向かった勇気の人としてテレビで時の人となるトム。だがこの全米規模での顔バレが思わぬ余波を引き起こす。トムの過去を知ると言う片目の男がトムの一家に付き纏い始めるのだ。模範的市民トムのために謎の男たちの素性を洗った町の保安官は彼らがそこらのチンピラとは格が違うスジモンであると告げる。「君は証人保護プログラムで過去を消してるわけじゃないよな?」という保安官の問いがアメリカっぽい。チンピラ強盗の放浪生活のやるせない描写や、、黒光りする大型車にのった傷だらけのヤクザもんの不気味な存在感、一見平和な田舎にも偏在する残酷な暴力の影、テレビメディアによって暴力に魅惑された大衆の英雄視がもたらすトラブル。出だしから絶好調のクロネンバーグ節全開。なぜトムはヤクザもんに付き纏われるのか?トムには本当に家族に隠している過去があるのか?あるとしたら何の為に?平和な家庭人としてのトムの人生は演技なのか?暴力に満ちた生活を振り捨てたはずの男が偶然の暴力によって逃げられない過去へともう一度呼び戻され始まる地獄巡り。映画後半、彼が暴力を振るう根拠はもはや不明になりただ暴力が暴力を生んで行く。殺さなければ殺される、それだけ。有る一瞬から平和な市民の仮面を脱ぐ(目付きが変わる瞬間が凄い!)ヴィゴ・モーテンセンは勿論、片目の男を演じたエド・ハリスと大ボス演じたウイリアム・ハート三人の演技は最高。省略に満ちた大胆な構成美や、傷跡を必ずアップにする肉体への拘り、印象的な脇キャラ(競馬バーでトムを待つ男の奇妙の味わいはどうよ)、高級車や豪邸の色気たっぷりな静物描写どれをとっても年季が違うと思わせる風格がある。謎を包含したままの複雑な余韻を残すストーリーや、CG全盛の時代にアナログな特殊メイクで見る人をビビらせる心意気も嬉しい。見る人に大きな謎を投げかけるこんな歯応えの有る映画、もっと増えて欲しいもんです。
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インターネット上には様々な方の日記が公開されているが、昔からずっと愛読してるのが水道橋博士の日記。1年365日忙しい中、原稿料が出るわけでもない長文を毎日更新するという作業だけでも凄いのに、内容も大変面白い。最近博士の相方で有られる玉袋筋太郎さんのブログも始まった。こちらもまた毎日長文で面白いのだが、その玉さんのご両親なんと新宿でホモバーを経営されていたというのである。今年の1月10日の日記より、以下引用。
× × × ×
北海道旅行で思ったんだが、母親のトークが微妙なボケが入ってきて面白くなってきた。
(中略)
ホモバーのママやっていたわけだから、その時代の話をしてくれるんだけど、これが珠玉なエピソードばかりで、拍手喝采モノ。
「私はどんな堅苦しい背広着て紳士然してる男の人でも、目を見れば一発でそっちの人かどうか分かる。絶対分かっちゃうんだよ」
じゃあ、テレビ見てても分かるわけ?ってきいたら
「分かる分かる、@@@とか@@とか@@とか絶対そうだよ。どんなにいばってる、いかつい男だって、そういう人間は絶対分かる」って断言したりすんの。
まぁ確かにゲイバーと違うホモバーでママをやっていたのである。見た目が普通の紳士がうちの店に来ると豹変してオネェ言葉になるのである。
そんなお客さんを15年以上見てきたら、自然とそういう目は培われるのだろう。
アイヌ民族博物館の帰り「そういえばさっきのアイヌ博物館で思い出したけど、北海道の石狩出身の人がいたの。ヒゲが濃くてヒゲちゃんって私呼んでたんだけど」思いっきりベタなあだ名のつけ方である。
「そのヒゲちゃんが私に告白してくれたのよ。ママ、私なんでこの道に入ったかというと、
番屋で男集が集まって寝泊りしている間にそういう事になったんだって。そこで覚えちゃったんだねぇ、番屋でもあるんだねぇ」「石狩挽歌」を越えたねこのエピソードは!
俺はすっかり「覚えちゃった」ってフレーズが気に入っちゃたよ。「覚えちゃった」って怖いよなぁ。覚えようと思えば誰でも覚えられるわけでしょ?そっちの道を覚えたら得なのかも…ッて話にも聞こえるよ。
× × × ×
むかーしから言われてることだが、刑務所やタコ部屋、軍隊なんかの男だらけの閉鎖状況で男色の道に入られる方は大変多いのであろう。そしてそんな己の性癖を、世間の無理解故に偽って生きておられる方も多いに違いない。私の身近にも、母の女学校時代の同級生が一流銀行のエリート社員と結婚して子供も授かって、傍目には平和な家族そのもの(小学校時代に一度お宅にお邪魔してご子息と野球盤などして遊んだ経験有り)だったのだが、ご主人のその筋の性癖が原因で離婚されてしまったということがあった。そんな肩身の狭い男の純情、愛情、劣情を描いた人生劇場が「ブロークバックマウンテン」。主人公のイニスとジャックは牧童。山の中で二人っきりのキャンプ暮らししながら、羊の群れを監視するという閉鎖状況で働いてるうちに、お互いを憎からず思い合うようになる。美しい自然の中で羊の群れを追い、焚き火での食事という繰り返しの日常を静謐な映像で捉えながら、何気ない会話や絡み合う目線で二人の感情の盛りあがりを巧みに表現するアン・リーのエロさと来たらない。いつもの安酒での晩酌。ついつい酒が過ぎて頭痛を訴えるイニス。「酔っ払っちゃった」「ちょっと休憩して行こうか」とばかり、ひとつしかないテントに誘い込むジャックは股間のテントも受入態勢万全!葛藤を超えて思いを遂げた二人は邪魔者のいない山の中で夢のような一夏を過ごす。がこの楽園は雪が降るまでの期間限定モノ。イニスの方は街に婚約者も残して来てる。そうでなくてもホモだというだけでリンチされて殺されるような野蛮地帯に暮らす身で、おおっぴらに付き合うなんてとんでもない話。愛の世界に埋没していては生きていけない現実がある。仕事が終わってそれぞれの家に別れて行く二人。イニスは予定通り婚約者と結婚しかわいい娘を授かり、貧しいながらも平凡な幸せを手に入れる。一方のジャックは山での生活が忘れられず、翌年も羊番の仕事を志願するが二人のホモっぷりを双眼鏡で覗き見してた雇い主のゲス親父に門前払いされる。失意のジャックは趣味のロデオで金持ちの娘に接近し結婚、男の子をもうけ、嫁のオヤジの陰険な婿いびりにあいながら実業家を目指す。「金持ち父さん、貧乏父さん」に別れた二人の運命だが、ジャックがイニスに出した葉書で焼けボックイが再燃。ウン年振りの再会の朝、家族の前でもはばからずそわそわと落ち着かないイニスは、訪ねてきた愛しいジャックの姿に辛抱堪らず家の前でぶちゅーとやってるとこをカミさんに見られて、一瞬で浮気がバレると言う不器用さ。釣りだキャンプだと「男の付き合い」を口実に「男の突き合い」に明け暮れ2度目の青春に浮き足立つイニスに対して、よりによって浮気相手がオッサンという不条理に悩み苦しむ不憫なカミさん。ついに浮気の証拠を突き付けて夫婦関係は破綻。イニスは町外れのオンボロ農場で隠遁者のような暮らしをはじめる。イニスが離婚したと聞いて胸と股間を膨らませ、イニスの新居へロングドライブをかますジャック。日曜日にドッキリ訪問を仕掛けたつもりがその日は月に一度の娘との面会日。ジャックはイニスにやんわりと諭されて南へとって返すが、一度膨らんだ股間は収まりがつかずついつい国境を超えてメキシコへ突入、男娼を買ってしまう。若い男の肩を抱いて、哀愁漂うマリアッチの演奏の中、暗闇に消えて行くジャックの背中に漂う落胆と孤独感。二人はお互い家庭も養育費も仕事もあるイイ大人。ホレたハレたにうつつを抜かしてばかりもいられないのも、遠距離がつらいのも男女の恋と同じ。しぼんだ期待をカネで埋め合わせるなんて、単なるヨゴレのオッサンとも言えるのだが、やるせない選択が逆に孤独感を深める描写で、汚い大人の純情と言う逆説を描いてしまうアン・リーの巧みさよ。一方のイニスも一人暮らしの寂しさと仕事のつらさから、行き付けの飲み屋の気のいいウエイトレスとついついイイ仲になってしまう。が、当然最終的には彼女の思いに答えられず苦笑するイニスに、彼女がぶつける精一杯の言葉の切ないこと。しがらみや、世間体や、生活の為に、やむを得ず真空パックした19の恋心を抱いたオッサンが悩み苦しみ、周囲の人を傷つけてしまうと言う悲しさ、どんなに日々の暮らしの中で擦り切れても手放せない一抹の純情への拘り。何もかも無くしてトレーラーハウスで暮らすイニスの元に離れて暮らす長女が訪ねてくるラストシーンの深い余韻が忘れがたい。「純愛映画」なんて言われてるがむしろ、愛だけでは生きられないこの世のままならなさを描いた作品です。「ドニ-・ダーコ」「遠い空の向こうに」とナイーブな青年役で抜群の存在感を見せてたジェイク・ギレンホールが、山っ気のあるジャックを完璧に演じていたのが印象的でした。この人の芝居ってうまいというより、なんか気になるんだよなー。アン・リーのギミックを排した演出も完璧。「グリーンデスティニー」>「ハルク」>本作と言う振り幅は凄い。「ハルク」のメイキングで自分でハルクのモーション・キャプチャーやってた姿は好感度高かった。「ハルク」は大傑作だと思った自分は今作にも一貫したアン・リー節を感じましたよ!友情も劣情も親子の情も何の事は無い全部人情じゃねーのというあたりが、アン・リーのスケールのでかさ。思えば最初に見たアン・リー映画「ウエディング・バンケット」もホモ(バイセクシャル)映画だった。「恋人達の食卓」あたりまでは勝手に女の監督だと思ってたんだよなあ。「グリーンデスティニー」の時にメガネのオッサンという正体を知ったときはショックだったなあ。こっちの勝手な思い込みなんだけど・・・。
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アカデミーの作品賞に、キネ旬のベスト1と日米ともに評価の高かった「ミリオンダラーベイビー」と言う映画。自分にとっては決してつまらない映画ではなかったのだが、後半はお涙頂戴の難病モノに成りかねない話を、なんとかイーストウッドの存在感で持たしてたし、ハッキリ言ってボクシングシーンのディテイル(ゴングのあと殴りかかって相手のクビの骨折ったボクサーがチャンピオンに成ることはありえません)はちょっとデタラメだった。敵役の反則ボクサーも人間以下のゴリラ扱いで、適役が光らないボクシング映画はちとまずいんでないのとか、まあいろいろ引っかかる面があったのだ。がその「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本書いたポール・ハギスの初監督作品「クラッシュ」を見て自分は全てを理解した!このハギスというオッサンはアメリカの野島伸司みたいなもんなのだ。冒頭サンドラ・ブロックにボロクソ言われるカギ屋の兄ちゃんに視点が移るあたりまでは、なんだか凄い傑作を見てるような気分だったのだが、ありえない偶然の連鎖の数珠繋ぎに段段興奮が冷めてくる。PTAの「マグノリア」は、同じような群像劇でも最初に「世の中には信じられない偶然がある」と宣言し、あえてリアルなドラマを続けたあと観客の予想を越えるありえない飛躍をラストに持って来た傑作であったが、ハギスさんの「クラッシュ」は寓話性皆無。このあり得ないホラ話を大真面目にリアルな話のつもりで演出してるようなのだ。あらゆる人種や階層の人に配慮してるような作りだが、唯一アジア人はヒステリックなオバハンと人身売買してるオッサンの夫婦しか出てこない。「あらゆる政治的なツッコミに配慮したつもりが、アジア人に対する無意識の蔑視感情が出てるんじゃないの?」と言ったら意地悪かしらん?終盤女性ボーカルの歌に合わせて登場人物が入れ替わっていくモンタージュは、「マグノリア」でエイミー・マンの「ワイズアップ」が流れる場面にクリソツ(というか曲調までモロパクリ)だけどいいのか?血痕がついてるかもという理由で車を買い取らなかった慎重な故買屋のオッサンが、なんで人身売買については抵抗を示さないのか?アカデミー脚本賞こんな大味でイイの?キャストは一流で演出もうまく出来てる分、下らない映画より罪深い気がするなあ。思わせ振りだから啓蒙的なような気がするのかなあ?
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ニック・パークがスタジオごとハリウッドに引っ越したと聞いたときはビックリしたもんである。ハリウッドで作った初長編の「チキン・ラン」は、養鶏場のメンドリを主人公にした脱獄映画というアイデアやオートメーションのメカの内部での超絶アクションがすばらしい傑作だったが興行的には今ひとつだったようだ。日本でも「ウオレスとグルミット」がプッチンプリンのCMに使われてたが大して話題になってなかったなあ。ファンシー感皆無のキャラクターの造型や映画愛あふれる作りこみはファミリーよりも映画好きに受けてるようでこの辺は本意なのか不本意なのか。アート系アニメーションマニアからもファミリー層からも微妙な距離を持たれるアードマン作品。アードマンの人形アニメの持ってるやさしげな手作り感と、笑いやアクション満載の娯楽性の高い作風は、何かきっかけがあれば大ブレイクするような気がするのだが。二本目の長編作品「ウオレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ」では満を持して真打キャラの「ウオレスとグルミット」を持ってきたニック・パーク。が変な独居老人とペットの犬が主人公というのこのシリーズ設定自体が全然ファミリー向けじゃない。子供受けはハナから捨ててるのか?!「ペンギンに気をつけろ」や「危機一発」ではサスペンス映画の定型を引用して映画好きのツボを突いた(「ゲッタウエイ」のマックイーンのマネが最高!)が、今回はなんと「動物パニック+ホラー」。巨大野菜コンテストの為に街の人々が丹精してる野菜を食い荒らす巨大ウサギの正体が実は…、というストーリーの運びも壮絶に下らなく、為にならんことといったらないが、この教訓のないナンセンスな笑いが有りそうでないのである。教会の司教が読んでるエロ本が「尼さんレスリング」だったりする部分の毒も健在だし、終盤のアクション描写もますますエスカレートしてサービス満点。珍商売と女に夢中なアホな飼い主に振りまわされながら健気にがんばる忠犬グルミットが絶対に笑わないところもファンシーじゃなくて良いんだなあ。今回も子供向けとは言いがたいが、イギリス的な作品世界にこだわりつつもハリウッド行きも無駄ではなかったと思わせるスケール感で映画としては大傑作。このシリーズ見てない人は人生の楽しみを損してると言っていいくらいです。
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最近じゃ深夜にひっそりとテレビ中継され、かつての隆盛の見る影もないプロレス界ではあるが、自分が小学生の頃は休み時間に男子は教室の後ろで絶対プロレスごっこしてたもんである。今じゃ「カウントスリーで試合が終わりと言うことすら、子供に浸透してない」(スペル・デルフィン談)というくらい衰退してしまったプロレス…。今日日の小学生は、タップやKOで終わるPRIDEごっこやK‐1ごっこをしてるのか?体育館のマットでヒョードルやノゲイラの真似してるのか?ロープに振られたら、存在していないロープにバウンドして帰ってくるあの「癒し」カルチャーはもう衰退してしまったのか?古館のマネで「おーっと」と言ってるお調子者はいないのか?田鶴浜さんの真似で「こりゃもうケンカだな!」とやる変わりに石井館長のマネで「脳揺れてますよ!」とやってるのか?なんせ長州力が「小力そっくり!」と言われるご時世。それでも、コロッケの物まねで美川憲一が再浮上し、ヒップ・ホップのサンプリング文化によりJBが復活したようにプロレス人気の再興につながれば良いのだが…。
日本におけるプロレスのオリジネイターは勿論力道山。この人のドラマチックな人生はまさに映画向きであり、本来ならとっくに日本映画の題材となっているべきであった。リキさんがらみの日本映画といえば本人主演のポンチ映画「力道山の鉄腕巨人」や記録フィルムを適当に編集したやっつけ映画「ザ・力道山」くらい。「戦後復興のヒーロー」リキさんの実像に踏み込めば、リキさんの国籍とプロレスの仕組み、興行におけるヤクザとの係わりに触れざるを得ないからか。『もう一人の力道山』 (李 淳 小学館文庫)と言う本が力さんの出自について詳しく書いているということなのだがこれは読んでいない。日本映画には色々しがらみがあって無理でも、タブーについては今一番無頓着なイケイケ韓国映画界がこんなオイシイ題材をほっておくはずはない。此度の映画「力道山」は日本が舞台で日本語セリフ、キャストもほとんど日本の芸能人やプロレスラーと言う異色の韓国映画。が韓国映画だからといって「日本人の差別に耐えて、刻苦奮励した民族意識に燃える男のサクセスストーリー」と言うような単純な映画ではない。この映画のリキさんは相撲の新弟子時代から「キレると何するかわからん男」であり、朝鮮人であるがゆえに自分を目の敵にする先輩を逆に利用して(この部分のストーリーの裏切りは見事)パトロンに取り入り己の上昇志向を満たして行く野心家として描かれている。実際リキさんは「怒ると何するかわからん」物騒な人であり、投機的な自己演出を繰り返して成功を積み重ねてきたビジネスマンでも有ったのだ。朝鮮人であるがゆえに横綱に成れなかったというのは史実かどうかは不明なのであるが、現在も日本国籍がなければ年寄株が取れないのは事実であり、外国人は部屋が持てない。曙や小錦など帰化した親方達でも結果的に相撲界を去っている者は多い。リキさんも相撲界での未来を悲観して違う場所にビジネスチャンスを求めて行ったと言うのは事実であろう。昇進を閉ざされて自暴自棄のリキさんが雨の中でオートバイを引きずってのた打ち回るド演歌なシーンの、燃えるようなアッパーな鬱屈感は映画の爆発を予感させる。アメリカでのプロレス修行を経て、スッカリアメリカナイズされて日本に帰ったリキさんはパトロンのヤクザを説得しプロレス協会を設立し興行に打って出る。でっかいアメリカ人をやっつけると言うカタルシスあふれるストーリーラインと、黎明期のテレビを取り込むというメディアミックス戦略でプロレス興行を軌道に乗せて時代の寵児となるリキさん。朝鮮人と言うルーツと、相撲界と言う日本の伝統文化、プロレスと言うアメリカ文化を折衷したキメラ的な怪物となったリキさんは、社会的には成功者であっても、実演者、演出家、経営者、興行師として様々なプレッシャーにさいなまれる孤独な男であり、己の出自を隠さねば成らない故国喪失者でもある。同郷の焼肉屋の主人が帰国事業で北朝鮮に行くというのを聞いたリキさんが「祖国が俺に何してくれたよ」と漏らすシーンに滲む孤独感が胸に迫る。帰属先がないがゆえにあらゆる局面で己に勝利を義務付けて引くことをしないリキさんに妻が漏らす「一度だけ負けて下さい」というセリフの凄さと言ったら。この映画、脚本も凄いが、昭和の町並みや風俗の再現性やキャステイングも抜群。妻役の中谷美紀やパトロンのヤクザ役の藤竜也は美味しい場面満載で光りまくりだし、船木誠勝の木村政彦(役名は伊村)と武藤敬司のハロルド坂田というプロレス界の二大役者の演技も抜群。存命中の橋本慎也も相撲時代は兄弟子で後にプロレス入りする東富士役(役名は東浪)で出演。リキさんから「腹の出てるレスラーは大成しません」と言われてむっとするシーンがあったが、これは不摂生ゆえに落命したと言われる橋本へのマジな警句となってしまった感が…。そして、多少たどたどしいながら、全編ハッキリと聞き取れる日本語セリフで通した主演のソル・ギョングの超絶的存在感がこの映画の肝。「シルミド」では精悍そのものだったボディをプロレスラー体型に増量し、少年のような稚気と、爆発的な狂気が混在する力さんを愛すべき人物として演じ切る役者魂は正に「映画俳優」。アルバイトで香港映画に出てる反町やキムタクとは志が全然違う。アル中や女狂い、ヤクザと一体のビジネスや木村戦での約束破りなど奇麗事で終わらない描写を満載で盛り込みながら、夫婦愛の映画としてさわやかな余韻を残す作りも娯楽映画としては真っ当。試合シーンの再現性といいマジにプロレス版「レイジング・ブル」と言って良い傑作だと思います!映画が終わってロビーに出たら「善人ぶるな!」との添え書き付きのソルギョングのサイン色紙がありました。
自分の中では力道山はブルース・リー、王貞治さん、前田光世(ブラジルで柔術を広めた人)、などと同じく二つの文明の境界線上にいたが故に極端な自己鍛錬へと己を駆り立てていくスポーツヒーローの系譜に並ぶ男。映画や音楽においてもボーダーライン上にいる人こそ文明を俯瞰的に見て、新しいものが発想できる。思えば猪木だってブラジル帰りであったし、馬場さんは肉体が完璧に規格外。昨今のプロレス界の沈滞もなんじゃかんじゃ言って面白い極端な人物がいないと言うことに尽きるのではないでしょうか。
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今や映画宣伝ではやれ監督が誰だの、ナントカ映画祭でカントカ賞を受賞だの、感動の実話の映画化だのと細かい事前情報が溢れ返っているが、かつて映画ってのはスターを見るもんであった。石原裕次郎、市川雷蔵、高倉健、アラン・ドロン、ブルース・リー、スティ―ブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジャッキー・チェン、ぺ・ヨンジュン…。細かい理屈は家において、四の五の言わずにチケット買い、お気に入りのスターの男っぷりを見せていただくという映画は今じゃスッカリ減ってしまった。かく言う自分も、今じゃ役者で映画を選ぶと言うことはほぼ皆無。ただ見に行った面白い映画で「またコイツ出てるよ」と思うことは多い。古くはクリストファー・ウオーケン(最初に意識したのは「007 美しき獲物達」の極悪人役)、ジーン・ハックマン、ロバートデュバル、ウイレム・デフォー、最近じゃポール・ジアマッテイやフィリップ・シーモア・ホフマン、そしてブシェミにマルコビッチ。小市民から極悪人、警官、ヤクザ、どんな役でも印象を残す卓越した演技力に支えられらた縦横無尽な仕事選び。イイ映画に出てる人イコール、イイ脚本、イイ企画を選ぶ人であり、この人が出てるならイイ映画に違いないという判断基準になるそんな役者。そんな役者軍団の中でも、ドン・チードルこそ今ダントツで出ている映画を輝かせる男。セックス・シンボルでもなければ、カメレオン演技を見せるわけでもないこの人なんでこんなに印象的なのか。そんな名脇役だった男が主演に一歩踏み出して、見事大仕事をやってのけたのが「ホテルルワンダ」。内戦が始まる前は貧しい国にあっては特権階級で優雅な暮らししてたホテルマンが、家族や近親者だけを救うつもりが徐々に救世主へとなって行く過程の描写はまっこと他人事ではなく、「歴史を見るとき、自分ならどうすると言う視点が必要」という宮崎学さんの言葉を想起せずにはおれません。実はこの映画のネット上でもさまざまな議論が行われてますが、自分が一番驚いた感想は、水道橋博士の日記での鑑賞記(http://www.asakusakid.com/diary/0602-jou.html)。博士と一緒に本作を見た、今はたけしさんの付き人してるベナン人のゾマホンのアフリカ人としての感想の重さをどう聞いていいのか。以下引用です
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そんなことに打ちのめされて映画館を出ると、ゾマホンが、釈然としない様子。
「アフリカ人が悪く描かれすぎている。勝手にフツ族とツチ族に分類し、アフリカ人同士を殺し合わせているのは、宗主国のベルギーであり、国連であり、アメリカだ。武器を持ち込んでいるのも白人だ。その視点が、この映画にはない」と力説。
確かに、アフリカの同胞から見れば、フツ族の描き方など、ただの未開の野蛮人だ。
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先進国の国民達の、アフリカへの無関心と蔑視は劇中戦場カメラマンのセリフとして言及されてはいるのですが、そのことが映画を見た人間に「自分はアフリカにも正しい見解を持っている」という自意識を与える危険性をゾマホンの言葉は指摘していると思います。
それにしてもドン・チードル!常に命がけの選択を迫られる極限状態の中で、己を信じ職業意識を貫くホテルマンの行き様が乗り移ったかのような魂の演技は絶品。ノンポリ男がやがて、無私の心を持った自己犠牲の人となる過程を完璧な説得力で表現する。社会派映画の「良い白人」の枠に収まらない男気演技を見せたニック・ノルテイの職人振りもすばらしかった。
自分の地元ではミニシアターで朝二回の上映と言う体制。一度日曜の朝行くとすでに二回とも満席という異常人気で退散。後日平日の初回に行くと9割近い入りでしたがなんとか席がありました。おクラになりかけた映画とは思えませんなあ。広告代理店や映画配給会社のしゃらくさいマーケティングや需要予測と言われるもんがいかにインチキかわかる。有名スターも恋愛もないクソ真面目で陰気な映画を金払ってでも見ようという人がこんなにいるのだ。この映画を日本に入れるために尽力された方に感謝したいです。この映画を日本に入れたい、日本の劇場で公開したいと言う志は美しい。ネット上で下らない人種差別的書き込みしてる人間は恥を知りなさい。
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去年の秋、スピルバーグが次回作として、1972年のミュンヘンオリンピック選手村でのパレスチナゲリラによるイスラエル選手殺害事件に材を取った映画をすでに完成していると聞いたときは仰け反ったもんである。もう老人といっていいスピルバーグの汲めども尽きぬ創作意欲の凄いこと。大衆から熱烈に支持される一方で、旧世代の映画好きからは「子供だまし」「ドラマが描けない」「女が描けない」「人間観が薄っぺら」「軽薄アメリカ文化侵略の象徴」「賞狙いのために社会派作品を撮る打算男」「サスペンス演出がうまいだけの空疎な作風」と散々に批判を受けてきたスピルバーグ。しかし「アイツはもう終わりだ」と外野に何度も揶揄されながらも、いまだに超人的早撮りを駆使して異常な制作ペースで映画を撮り捲くっている。近作だけ見ても妄想近未来SF「マイノリティ・リポート」、実禄犯罪モノ「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」、ヒューマンコメディの「ターミナル」そして絶滅パニック「宇宙戦争」どれも題材はバラバラながら、映像表現のテクニックは円熟を超えて達人の領域に入っている。最新作「ミュンヘン」は国家の命による人間狩りという恐ろしく硬質なテーマの重く暗い映画だが、3時間近い上映時間を一切感じさせずに突っ走る。主人公のアブナーは、時の首相からじきじきに説得され、ミュンヘン事件への義憤も手伝って、アラブゲリラ狩りのリーダーとなる。ところが政府の説明は「国家は表向きは一切支援しない、逮捕されても知らん」と言う作戦方針。早い話国家に捨てられたようなもの。妊娠7ヶ月の奥さんとのセックス中に選手殺害シーンをフラッシュバックさせるというどえらい描写で、苦悩する家庭人アブナーの人間性を生々しく描きこむスピルバーグの豪腕振りよ。文書偽造担当、爆発物担当、車と荒事担当、後始末担当と4人のプロをあてがわれ、国家から指示されたターゲットを探し出し、計画を練って、標的の当人だけを殺害し、現地の警察につかまらずに逃げるという、金銭以外は一切自己責任の孤独な人間狩りが始まる。国家を頼れないアブナーの情報源はヨーロッパを股にかける、情報屋兼闇のブローカー的フランス人の大家族。金を払えば大概なことはしてくれるこの一家の助けもあって隠れ家や武器を調達し、仕事の流れが完成する。ターゲットは皆ヨーロッパを拠点に市民生活を送るアラブ人のインテリで、ゲリラのスポークスマンや当時パレスチナの後見人的立場だったソ連に通じている活動家。アブナーは国家の命ずるまま彼らを銃で撃ち、爆弾で吹き飛ばしてミュンヘン事件への報復を果たして行く。それぞれ異なった味付けで暴力の瞬間への緊張を高め、サスペンスを盛り上げて行く個々の殺人シーンの切れ味はスピルバーグの真骨頂。ターゲットの死に様を真正面から見据えて、正義の名のもとに行われたはずの殺人の残酷さを容赦なく付きつける。異変に気付いたターゲット側も「狙うほうが狙われるほうより強いんじゃけん」とばかりに、「イスラエル殺しの軍団」に報復を開始する。孤立無援での過酷な任務の果てに湧き起こる罪悪感と疑問の中で命まで狙われて憔悴して行くアブナーとその仲間達。人を的にかけたら自分も命を狙われるという当たり前の真理を前にして、報復の空しさを痛感しつつも生きんが為に暴力を止められないアブナーの姿はまさに現在のイスラエルとアメリカの姿を象徴している。そしてそのイスラエルが国土と報復にこだわるのはホロコーストがあったからで、虐殺の被害者ゆえの「一辺イモ引いたらまた皆殺しにされる」という危機感ゆえなのだ。「シンドラーのリスト」でイスラエル国家の覚えもめでたかったであろうスピルバーグが、何もこんなややこしい映画を作る必要は無かったろうが、やらずにおれなかったところが彼の作家性。しかも「時代の波に翻弄されるお涙頂戴の人間ドラマ」ではなく、「暴力描写満載の緊張の途切れないサスペンス映画」に仕上げ、家族愛まで盛り込むまったくいつものスピルバーグ作品になってるのが凄い。映像や音響も常にハイクオリテイなので、逆に凄さが伝わって無い気もして勿体無くもあるが、巨匠と言われて老け込んでるより、撮りたい映画をバリバリ撮ってるほうが彼らしい。自己神秘化に無頓着な映画馬鹿スピルバーグさん、今後も興味の赴くままバリバリ映画作ってください!
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もう三月の声を聞こうという時になんですが今年最初に見た映画が、製作開始の報を聞いた時から大期待作だったP・ジャクソン版「キングコング」。ギラーミン版「コング」は自分が小学三年の時。これははっきりと期待ハズレだった記憶がある。今は無き貿易センタービルの屋上で、コングがジェット戦闘機ワシ掴みにして絶叫するポスターは大変カッコ良かったが、映画本編にはそんなシーンは何処にも無かった。大人はウソツキだと思ったが、昔は映画の宣伝ってのはほぼ全部誇大広告だった。1933年版オリジナル「キングコング」(以下「オリキン」)は、むかーし教育テレビかなんかで見たことあるのだが細部はすっかり忘れていた。去年本屋さんで売ってる500円DVD買って見直したのであるが、100分間に見せ場を詰め込んだタイトな傑作娯楽映画であった。今回のP・J版「キングコング」はこの映画史上のマスターピースにしてあらゆる怪獣映画のアーケタイプたる「オリキン」の忠実なリメイクだが、上映時間は三時間オーバー、単純に二倍に増量という超大作。勿論天下のP・Jが旧作を薄めて尺を稼ぐような事をする筈も無く、「オリキン」に描かれなかった行間をタップリと描写して行く。超大作を物にする為には決して妥協しない映画監督カール・デナムの狂気は、手段を選ばぬ映画作りの果てにコング狩りへと暴走するキャラクターに説得力を増すとともに、ニュージーランドという辺境からハリウッドの帝王にのし上がったP・J自身の「ナンボ奇麗事言ったトコで、映画は見世物、映画作りはバクチよ」という嘯きが聞こえてくるよう。「オリキン」と同じく八百屋の店先のリンゴを盗もうとしているところをデナムに拾われる美女アン・ダロウについても、なぜ彼女が食い詰めるほど困窮しているのかを、大恐慌下という当時の世相から丁寧に説き起こして行く。またアンを見世物一座の出身というキャラクターに設定しているところもP・Jの趣味丸出し。髑髏島に向かうベンチャー号に乗り込むキャラクターも質量とも五割増し。今作のためにP・J追加したキャラクター達を時間をかけてキッチリ描き込む。デナムにダマされて拉致同然で航海に参加する脚本家が動物用の檻でタイプを打ってたり、ナルシストの男優が自分のポスターを部屋に貼ってたり、船員が「闇の奥」(『地獄の黙示録』の原作)読んでるとかのお遊びもイチイチ憎い。髑髏島での顛末はほぼ「オリキン」を踏襲してるが、「オリキン」そのままの丸太橋をねじって探検隊を振り落とすシーンに感激。P・Jが追加したのは巨大ムシムシ軍団との格闘。「風の谷のナウシカ」とは180度違う虫とのコンタクトシーンのクド気持ち悪い描写の粘っこさに拘ったP・Jは偉かった。アン・ダロウ役のナオミ・ワッツ38才はコングの手の中でもみくちゃにされて、とっくに死んでそうなもんだが、服がイイ塩梅に裂けてエロっぽくなるだけなんだから、水野晴男先生でなくても「映画ってホントいいもんですね」と言いたくなる。コングの住処の傍らに転がるコングの元カノとおぼしき巨大白骨が、男ヤモメの悲哀を強調してナオミ38才も思わず情が移り、見世物一座で憶えた軽業でコングを慰める。獲って食うつもりだったオナゴに惚れたコングが、愛故に狡猾な人間の罠にはまり捉えられニューヨークに運ばれる部分のスピード感は「オリキン」を完コピ。ここの大胆な省略は映画史に残る名編集故にいじれないのです。「エイス・ワンダー」といってもパッツィ・ケンジットではなく「世界の七不思議」の次の「八不思議目」として巨大鎖で亀甲縛りにされてブロードウェイの劇場に晒されるコング。取材陣のフラッシュ撮影にコングが怒り出すというのは「オリキン」のままだが、P・J版ではナオミ38才はコングが見世物にされるのが忍びなくてデナムとは袂を分つている。鎖を引き千切って夜の街に飛び出しナオミ38才を捜し求めるコングの大暴れ、ナオミ38才との劇的な再会(突然大都会で二人きりになる道具立てが憎い)から、ビル昇り、飛行機との格闘、そして文明の力に屈服して転落するお馴染みの流れのコングの描写は絶品!銃弾を浴びたコングの命の火が消える瞬間まで超絶的CGで描ききり観客の血涙を搾り取る。この単純な物語なんでこう心に響くのか。人間の都合で文明に放り込まれ害獣として退治されてしまうコングの悲哀からか、乱暴だが一途にアンを愛するコングの純情故か、男も女も大人も子供も誰もがこの怪獣に感情移入してしまう。爬虫類じゃなくて類人猿だってとこがいいのかなあ。この物語の持つ息の長さは何に由来するのか。「オリキン」は安売りDVDで500円で買えるので未見の方は是非御覧下さい。面白いよ。色んな意味で映画史上屈指の大発明であった「オリキン」を、ひとまず気の済むまでフルスイングでリメイクしたであろうP・Jの次の手はなんだ?マンガ原作ものとリメイクじゃない、新しい映画史に残る物語を頼みます!
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映画雑誌もベストテンの季節ですが、自分は映画や音楽に点数をつけてランク付けするのは…・、ハッキリ言って大好きです。およそ評論家を名乗るプロなら良い映画と悪い映画を自分の基準で説明出来にゃあマズイでしょう。自分は映画評論家ではありませんが、それ以前に去年は劇場で見た映画が31本。さすがにベストテンは選べないのでベスト5を…。
2006年劇場で見た映画ベストファイブ
1位 「親切なクムジャさん」
2位 「チャーリーとチョコレート工場の秘密」
3位 「宇宙戦争」
4位 「サイドウェイ」
5位 「カンフーハッスル」
石井館長推薦枠 「アレキサンダー」「ブレイド3」
希望枠 「惑星大怪獣ネガドン」
心の一位 「バス男」
「親切なクムジャさん」はここ数年のベスト。作家性と娯楽性と不謹慎がヤミナベのようにゴッタ煮になった韓国映画の表現の自由ぶりは世界一!人権への配慮で腑抜けた映画ばかりではイカンですよー。勿論「猟奇的な、頭の中のナントカ」みたいな映画はオレの敵です!韓流にもオバハン・ガキ向けと、オレら向けの2種類がある。「シスの復讐」誉めて「宇宙戦争」クサしてる奴は多かったが、説教臭くてヌケの悪いルーカスよりフルスイングのスピルバーグの方がずっとすばらしい。当然「ミュンヘン」も期待特大です。「サイドウェイ」のダメ中年賛歌と「カンフーハッスル」の王道振りもヨシ!でも実は今年は、「クムジャさん」は別格としてDVDで見た「ベルヴィル・ランデヴー」「ワンナイト・イン・モンコック」と「バッドサンタ」の方が劇場で見た映画より面白かったのだ。「ランド・オブ・ザ・デッド」も劇場で見ずでしたが傑作でした。ロメロ監督スイマセン。映画選球眼が鈍ってるなあと反省しきり。特に「ワンナイト・イン・モンコック」は凄かったなあ。「アレキサンダー」「ブレイド3」は別格です。日本映画は「惑星大怪獣ネガドン」。あるCGアーティストが2年4ヵ月かけてコツコツと作ったフルCG怪獣映画。細部まで魂の入った米粒写経的映画だが、チマチマしたオタク趣味ではなく恐ろしくヌケの良い娯楽映画。マジで一連のPIXER作品にすら匹敵するエンターテイメント。年末にテレビで見た北村龍平のゴジラ映画は生きているのがイヤになるくらいつまらなかったが、これは大傑作。東宝は彼に十億くらい渡して好き勝手してもらったら良いのではないか。未公開映画は「バス男」というタイトルでDVDになってしまった、「ナポレオン・ダイナマイト」を…。文句なく面白いです。
ダメ映画ベスト3
1位 「インファナル・アフェア3 終極無間」
2位 「エピソード3 シスの復讐」
3位 「ブラザーズ・グリム」
ワーストワンは終始詠嘆調で作り手ばっかり良い気分に成ってる様なオナニー映画。ガッカリしました。「シス~」も辻褄合わせに終始してて爽快感まるで無し。黒いお面のオッサンの誕生物語で、そんな大マジなられてもねえ。「ブラザーズ・グリム」はけなす元気も起きない無気力映画でした。
人の作ったもんにケチばかりつけてないで、今年は自分の作品を頑張って作ろうと思います。
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「渡辺恒雄 メディアと権力」(魚住昭 講談社)…同じ著者の「特捜検察の闇」が大変面白かったので、前から気になってた本書も購入。ハードカバー本買ったあとに文庫が出てた事を知って大ショック!(大袈裟)。去年のプロ野球ストの時に、巨人の選手会長だった高橋について、「オレも昔も共産党だったからなあ…。マア若い時かかるハシカ見てえなもんだ。」とズルムケなコメントでまとめてたナベツネ(自称ワタツネ)。が一方で「沢山の優秀な若者をデタラメな作戦で死なせた軍幹部が合祀されているから」という理由で小泉首相の靖国参拝を批判したり、最近じゃ月刊現代で佐高信と対談したりなんだか一筋縄ではいかないお方なのだ。東大細胞の共産党員時代、ヒラ党員でありながら、党の指導部の指令のまま盲目的に行動する党員を「馬車馬的行動主義者」と批判して、共産党のトップダウンの封建的組織を徹底的に批判したというんだから凄い。日本一早いともいえるスターリン批判だ。「戦前の軍国主義も共産党の官僚的指導体制も窮屈な事には変わりないじゃねーの」というこの意見、なんだかんだいって「自分が一番エライ」というナベツネだからこそ言えた事!背広着たヤクザみたいな最近のオカマ保守や実際にケンカした事も無いくせに威勢だけは良いネット右翼連中より、分り易くエラそうでハッキリと抑圧的なナベツネの方が信用できる!全国紙の朝日や毎日がエラそうに政治や天下国家を語るのに対して、読売新聞はかつては関東のブロック紙に過ぎず、本田靖春さんや黒田清さんに代表される猟犬のような屈強な事件記者の取材力に依拠した社会面に特色があり、「事件の読売」の言われたそうな。その読売がナベツネの台頭によって自民党ベッタリの全国紙になったのは何故なのか?「今の読売は権力にすり寄ってるなんてもんじゃない。権力者が新聞を作ってるんだ。」という黒田清さんのコメントが全てを言い表してます。
「大阪破産」(吉冨有治 光文社ペーパーバックス)…その読売大阪社会部の中心記者だった大谷昭宏さんの事務所に所属する吉冨有治さんが大阪市のデタラメな都市経営を描いた一冊がこれ。私小倉も、ちなみに大阪市民です。市バスの運チャンの平均年収が800万、小学校の給食のオバチャンの平均年収が600万。まあどっちもそれなりに大変なお仕事とは存じますが、必死で市民税払ってる貧乏市民のオレには羨ましい待遇ですなあ。その他大阪ドームや湾岸地帯の巨大建築など無駄なハコ物のたどる末路の脱力ぶりたるや…。財政再建団体になる前に引っ越した方が良いと再認識。大阪人は合理的っていうのはウソだ。この本光文社の新しいカテゴリーで、時事的なタームの後ろに英訳がついてるという大変意欲的な製本になってるんだが、単に読みにくいだけでした。英訳は欄外にして読みたい人だけ読めるようにしたらいいんでないかい。
「誘拐」(本田靖春 ちくま文庫)…もう一発読売社会部絡み。「疵 花形敬とその時代」も最高だった本田さんの傑作ノンフィクションが文庫で再発。東京オリンピックの前年に起きた営利誘拐事件の記録。壮絶な貧苦を舐めた犯人の描写が壮絶。病気療養が「実家の裏山に入ってマムシを捕まえて生き血を吸う」だよ!執念の捜査で犯人を追い詰める平塚八兵衛刑事の異能振りも印象的。死刑囚となった犯人が獄中で詠んだ短歌が胸を打つ。
「御臨終メディア」(森達也 森巣博 集英社新書)…またも森達也さんの本。オーストラリア在住の職業カシノ堵人(カシノが正しい発音だそうな)にして小説家森巣博さんとの共著。自分もヘタクソギャンブル愛好家なので森巣さんのギャンブル小説は愛読しております。賭け事ってホント良いもんですねぇ。これは「日本のマスメディアについて」とテーマを限定した対談本。「北朝鮮や中国のマスメディアは、国家によって統制されているので『表現の自由』は無い」と言ってる人は多いが、国家による統制がない日本のマスメディアになんで『表現の自由』が無いの?という素朴な疑問を追及する二人。警察や保守文化人を徹底的にコケにする森巣さんは「あいつはオーストラリアという安全な場所に身を置いているから、あんなことが言えるんだ」という批判に対して「日本が『危険な場所』であることを認めているわけです。ならばなぜ避難しないのか。」とあっけらかんと斬り返す。正しい。それにしても今のネット空間に蔓延する愛国心ってのはなんなのか?60年代に左翼が流行ったのと同質の流行現象にしか見えない。自分の世界を狭めてるだけのような気がしてならないのだが。国境を超えるのにも勇気が要るのだ。臆病の自己肯定として愛国やってるくらいなら海外旅行した方が良いよ。ハワイやバリ島で現地のナンパ師とやってるオネエちゃんのほうが、ネット右翼よりお国の為になる!とこれは本書にはなんも関係ない私の持論です。
「悪役レスラーは笑う -卑劣なジャップグレート東郷-」(森達也 岩波新書)…今年読みまくった森本の極め付け。なんと岩波新書からプロレス本。第二次大戦後、田吾作スタイルで卑劣なジャップとして北米マットでアメリカ人観客のヒートを煽り捲って引く手数多の人気レスラーとなり、巨万の富を描いたグレート東郷。出生の謎、日プロ乗っ取り事件の真相、守銭奴と言われた男の実像、力道山との友情の秘密、とプロレス好きには堪らない内容の数珠繋ぎ。当の森さんが小さい頃からプロレス好きで(現在はWWEファン)TV業界に入る前、失業中に「週間ファイト」の面接を受けたとの仰天事実まで発覚!面接で井上編集長に「プロレス好きなら記者になったら色々幻滅する事もあると思うよ」と親身な言葉を受けたと言うんだからタマラン。「映像作家 森達也」の誕生にまで一枚噛んでいたとは、恐るべしI編集長!終盤グレート草津さんからの聞き書きがハイライト。昭和のプロレス好きは必読です!
「サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 僕は生まれてから5年間だけ格闘技を見なかった」(菊池成孔 白夜書房)…タイトルから内容の理屈っぽさが伝わって来る格闘技本。菊池さんの本職はミュージシャン・音楽評論家で、東大で音楽の先生してるようなインテリ。格闘技好き、格闘技インサイダー、特定の格闘家ファンなんかの書いた賛美本とはちと違う、歯応えのある文体の評論集。プロレス・格闘技ファンは「ジャンルへの愛情の無い者は書いたり語ったりするな」という偏狭な人が多いが、音楽では表現者に拮抗するような評論者がいるの当り前。いわば音楽や映画批評の手法で語られた格闘技本と言ったとこか。ただ内容は難解ではなくて、五味隆典を「オナベホスト」と言ってみたり、鶴太郎と畑山がアツイおでんを食べる番組を真面目に論じたり、なぜか安田大サーカスとのロング対談があったりとサービス満点で面白い!ボクシングマガジンの宮崎さんとの対論では「総合とボクシングを比較して論じる」という総合格闘技好きが避けてる地平へ、敢えてぐんぐん踏み込んで行く。ネット空間で不毛な罵り合いしてるPRIDEファンとK-1ファンや、亀田三兄弟をこき下ろしてる偏狭なボクシングファンは菊池さんの芸を見習ってはどうか。この本は今年のベスト1です!
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こないだ、知り合いの踊りの公演の撮影に京都に行った時のこと、リハーサルの時から熱心に見学している外国人のカップルがいた。本番前に弁当食ってる時に話しかけると、コロンビアから来た夫婦でダンナの方は東アジアの芸能を研究している学者さんだという。自身のWebで芸能の百科辞典を作っていて、「芸能関係の人間国宝を一覧にまとめたページは自分のページが初めてだ」とおっしゃる。文部科学省は大丈夫かいな?大変な好人物で、今は東大寺の正倉院に収蔵されている楽器を研究していると言っていた。自分の精一杯のコロンビア知識でサッカーのバルデラマの髪型のモノマネで失笑されたり、「エメラルドカウボーイ」のハヤタさんの話をしたりしたのだが、たまたまそんな私的コロンビア体験のあと見た、コロンビアを描いた映画「そして、一粒のひかり」。原題は「MARIA FULL OF GRACE」(邦題の意味不明な事よ)。17歳のコロンビア人の少女マリアが主人公。この娘さん、生花工場で働いてオカンと出戻りのネエちゃんを食わしてる苦労人だが、大して好きでもない恋人の子供を身篭ってしまう。仕事中つわりで商品の上にゲロって工場もクビ。彼女の稼ぎを当てにするダメ家族に責められ、恋人も甲斐性なしと八方塞り。が地域の祭りで偶然出会った工場の同僚が運び屋のクチを紹介すると言い出す。ドラッグのカプセルを飲み込んでアメリカに渡ってウンコと一緒にプリプリ出せば包み一個に付き100ドルだと言う。昔「03」と言う雑誌でコンドームに詰め込んだ麻薬のチューブを飲み込んで飛行機で密輸する人(スマッグラーというそうな)の手記が載ってたが、ほぼあの通り。首都のボゴダに行った少女は思ったより親切な売人のオッサンの口車に乗せられ、アメリカへの好奇心も手伝って運び屋になる約束をする。飛行機に乗り込むと運び屋が女ばっかり4人。誰か捕まっても誰かが入国出来るようになってるのだ。ウンコと一緒に出てきたカプセルを便所の水道で洗浄してもう一辺飲み込むという息の詰まるような最悪の飛行機旅。アメリカに着いたら着いたで、未成年の一人旅はあからさまに怪しく、空港で麻薬検査官に拘束されてしまう。が妊娠中なのが奏功し、X線検査を受けられずまんまと入国。空港を出るとギャングのチンピラ連中にモーテルの一室に監禁されて下剤を飲まされカプセルを一つ残らず出すまで監視される。が一緒に監禁されてるもう一人の運び屋の少女の様子がおかしい。胃酸でカプセルが破れて中毒になったのだ。まどろんでたマリアが目を覚ますと少女を運び出すチンピラ。バスルームは血まみれ。反射的にクスリを持ってもう一人の運び屋少女と監禁部屋を逃げ出した彼女の運命は・・・というお話し。主演の女の子はアカデミーにもノミネートされたそうだが、思慮のないティーンエイジャ-の行動原理を巧く体現していた。若い奴はウソつきで迷惑なもんであるという視点、単なる説教クサイ教訓話に終わらないラストのマリアの選択、どちらもリアル。映画もつまらなくはないけどなんか気になる。なんでかと思ったら、コロンビアは最悪の土地でアメリカが良いトコみたいな視点しかないのだ。ドラッグを買うアメリカ人の害毒はどうなんだ?というか南米が貧乏なのはアメリカが実効支配してるからじゃろう。
京都のコロンビア人の先生は「コロンビアのイメージはいまだに山岳ゲリラとギャングとコーヒーだけ。麻薬で有名なメデジンも麻薬ギャングは崩壊して今は平和なもんです。メデジンは一年中春の気候で良いところですよ。まあコロンビアの人もアジアの事はほとんど知りませんけどねえ。でも大学で日本文化の講義すれば教室は一杯になりますよ」と言っとられました。外国を知るというのは難しいもんですが、コロンビアの事もっと知りたくなりました。
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10年くらい前、遠藤賢司さんのライブに良く通っていた。京都のライブハウスでエンケンバンド見てた時のこと、1曲目から「輪島の瞳」(横綱輪島が借金スキャンダルを経て相撲界を終われた後、初めてプロレスのリングに立った試合を描いた長大な曲)でグイグイと盛り上げるエンケンさん。超満員とはいかないが良い感じに埋まった客席もしょっぱなからグッと熱を帯びる。曲が終わって拍手とヤンヤの歓声、続いて最前列の青年が「史上最長寿のロックンローラー!」(エンケンさんの代表曲のタイトル)と合いの手を飛ばしたその時、エンケンさんはその青年に向かって「彼は曲の一番イイところでトイレに行ってたね」とピシリとクギを刺したのだ!痛い指摘をされたその青年はバツが悪そうだったが、エンケンさんはその後もいつもの様に全力のライブを展開した。まあ関西の客は酔っ払って演者に茶々を入れるのを「場慣れした観客」だと勘違いしてるようなヤツが多いのであるが、エンケンさんの馴れ合いを拒絶し、厳しく観客と対峙する姿勢のストイックさは自分にとっては大変痛快であった。そんなエンケンさんが自分主演のライブ映画を作った。「不滅の男 不滅の男 エンケン対日本武道館」というタイトルのこの映画、ありきたりなコンサートフィルムやツアードキュメントでなく、映画の為に武道館を借り切り観客を入れない状態で行った演奏を収めた映画なのだ。元より、自ら『純音楽化』を名乗り、分類不能の音楽で原野を切り開いてきたエンケンさんが平凡な映画を作るはずも無く、とにかく全てが極端!真っ暗な武道館でスポットを浴びて歌うエンケンさんに毛穴が映るほど肉迫するカメラ、歪みまくった音響、タイトル曲を一曲目にかますズルムケな選曲全てがフルスイング。正直、武道館でやる必然は、自分にはあんまり感じられなかったのであるが、永ちゃんやヨシキの例を引くまでもなく、武道館にこだわるのはデカイ男のたしなみ。エンケンさんがそうしたいならしょうがねえじゃねえか!という気分で観賞させていただきました。理屈はいらねえ!面白い男は何をやっても面白いのである。
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ポルノの世界を描いたアメリカ映画は意外と傑作ぞろい。古くは地獄巡りニューシネマの傑作サスペンス「ハードコアの夜」、ポルノ映画界の盛衰をボンクラ青年の非成長物語と重ねて描いた「ブギ―・ナイツ」、「アマデウス」のミロシュ・フォアマンが反権力銭ゲバエロ親父の人生を本人がまだ生きてるのに伝記映画にしてしまった「ラリーフリント」、ブサイク毛むくじゃらポルノ男優のドキュメンタリー「ポルノ・スター ロン・ジャーミーの伝説 」。ゼニとエロに群がる男と女の群像が織り成すドラマがつまらなかろうはずが無い。あっ!でも「8mm」は駄作でしたねそう言えば。しかし自分は洋ピン映画その物は正直苦手。さんまがかつて持ちギャグにしてた、「オ~イエス!オ~グッド!」な恥じらいもへったくれもない女優陣の臆面も無いヨガり様にも一つ興奮出来無いのだ。そんな洋ピン門外漢の自分も「ディープ・スロート」の名前くらいは勿論知っている。「映画秘宝 映画懐かし地獄70’s」(洋泉社)でお洒落映像作家のミルクマン斎藤氏(お洒落業界人なのに洋ピンを熱く語る姿がカッコ良いぞ)が詳細なポルノ映画史を書いておられて、そこでも「ディープ・スロート」はエポックな一本として紹介されていた。で本家も見ていないのに見てしまった「インサイド・ディ―プ・スロート」は、1972年に公開され、当時日陰者だったポルノ映画で初めて一般映画に比肩するメガヒットとなった「ディ-プ・スロート」が巻き起こした騒動の顛末を描いたドキュメンタリー。このお化けエロ映画を発想したのは、当時ニューヨークに住んでたイタリア系のナンパな美容師ジェラルド・ダミアーノさん(以下ダミやん)。このダミやんお客の髪を切りながらあれこれとするお喋りで、亭主の一本調子なセックスに対する不満をもらす奥様族の多さに驚く。元来キライな方じゃないダミやんは、そんな奥さん連中の不満を身を呈して解消するだけでは飽き足らず、エロ映画を使ってより広範な性技の伝導をおこのう事を思い立つ。「セックスは子造りの為にする神聖な行為であり、女性が性的快感を求めるなんてとんでもない」という清教徒的な真面目くさった性モラルに真っ向から挑戦するべくダミやんが考えたストーリーは超下品!或る不感症に悩む若妻が病院を訪ねると、医者が言うには「あ-奥さんこりゃ奥さんセックスで感じない訳だ~。だって奥さんのクリトリスは喉の奥にあるもん」とガン告知よりショッキングな診断を!というイイ大人は決して考えないようなファンタジックな設定。時あたかも性の開放が叫ばれる時代。素人が低予算で造った冗談ポルノ「ディープ・スロート」は作り手の思惑を超えて社会的事件となる。あけすけなセックス賛美と当時はタブーだったフェラチオ(『フェリシオ』って発音であった。なんともオシャレ)のモロ描写に大衆は大熱狂。女性客やカップル、文化人まで劇場に押し寄せ映画は社会現象となる。ヒュ-・へフナ-やラリー・フリント(二人ともまだ生きてる!)が嬉々として公開時の熱狂を語る様がおかしい。当時はゴリゴリ保守のニクソン大統領政権だった為、政府はカンカンに怒ってNY州での上映を禁止、主演男優のハリー・リームス(売れない俳優で当初裏方として映画に参加したが巨根を買われて主演に抜擢)はワイセツ罪で逮捕され、たった200ドルのギャラと引き換えに有罪になってしまう。巨根であるが故の受難…。が上映禁止や裁判の報道が逆に宣伝になり映画は全米に伝播。全米各州で公開と上映禁止のイタチごっこが始まる。実はこの映画の出資者は恐怖のマフィアボス。全米の映画館に手下を使ってフィルムを届け、毎日儲けを強制徴収。銭を出し渋るヤツや集金を横領した奴は次々に血の海に沈む。金が儲かり過ぎて、金を数えてる暇がなく札束の重さで金額を計ってたというからすごい。いまだにマフィアの刺客におびえる80代のもと映画館主の老夫婦のインタビューの生々しい事。主演女優のリンダ・ラブレイスはあるポンビキのオッサンが連れて来た訳アリだったのだが、なんとこのポンビキ君は暴力と催眠術で女を支配する人間のクズだった事が発覚。軽い気持ちで出た低予算ポルノのヒットで、全米規模というスケールのデカイ顔バレに直面した彼女は、突如暴力男の洗脳から解き放たれ、話題の渦中で反ポルノの闘士になってしまう。テレビでフェミニストと同席しポルノの撮影現場の人権侵害ぶりを告発し時の人となる彼女であったが、世間は無理解で「そんな男と付き合うのは自分の責任なんじゃないの?」「幼少年期になんかあったの?」と彼女を見下すだけ。結婚して平和な生活を目指した彼女は「ディープスロート」に一生つきまとわれ苦しめられる。何度も職場を追われ、五十過ぎてまたポルノの世界に戻る彼女。最後は交通事故死してしまう。一方実刑判決でムショに送られるかと思われたハリー・リームスはニクソン失脚後に誕生した民主党政権下で無罪判決を勝ち取る。が、一般映画(トラボルタの「グリース」)への出演を反古にされ自暴自棄になりアル中に。最後の出演作ではずっと座ってウイスキーをあおっているだけで完璧に廃人(その後キリスト教に改宗して不動産屋でサクセス。アメリカってすごいねえ)。ダミやんも「ディ―プ・スロート」の上がりは全てマフィアにとられ一銭も儲かっていないという。しかしその後職業映画監督となり、幾多の傑作をものにしたのだという。宗教家や政治家ハリウッドスターまで巻き込んで轟々たる議論を巻き起こしたハードコアポルノも、結局ビデオ時代に入って衰退。エロ映画は自宅で見る物になりより過激化した。映画の最後を締めくくる「ポルノはマグマだ。どんなダムを作っても決壊する」ってコメントの含蓄よ。巧いこと言うねえ。
ところでニクソン失脚の原因となった「ウオーターゲート事件」の情報主もこの映画に倣って「ディ―プ・スロート」と呼ばれた。こんな形で歴史に名を残した映画があるというだけですごいですねえ。
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中学生や高校生の頃は、宣伝にダマされて色々下らない映画を見る羽目になったもんである。大スター勢揃いの「キャノンボール」、全米38州で上映禁止の「サランドラ」、残酷を超えた驚愕ドキュメント「カランバ」。住んでたのが地方都市で映画が二本立てだったのもあって、併映作品で今はタイトルも忘れてしまったゴミ映画も大量に見たもんである。インターネットは何者じゃという80年代、「キネ旬」や「ロードショー」を(金が無いので図書館で)貪り読んで必死で映画の勉強をして、日払いのバイトして貰った給料にぎりしめて向かった映画館で過ごした薄暗い青春。活字情報以外の予備知識がない状態で「ビデオドローム」や「悪魔のいけにえ」見た時受けた衝撃は忘れがたい。それから20年弱で何千本という映画を見た。大概色んな種類の映画を見て、ある程度自分の趣味嗜好もわかるし、監督やスタッフの名前や批評なんかの前情報でハズレ映画に金払うこともほとんど無くなった。がその分、得体の知れない映画に出会う喜びはとんと無くなってしまった。趣味の良い映画、良く出来た映画、自分の好きな監督のいつもどおりの映画、新しい技術を使った目新しい映画。知らぬうちそんな映画体験ばかりしていた自分の後頭部を「そんなんで良いのかよ!」と鈍器で殴ってくれた衝撃作が「親切なクムジャさん」。この映画の得体の知れない分類不能ぶり、真面目なのかふざけてるのかわからないストーリー展開、異常に密度の濃い隅々まで神経の行き届いた画面、惜しみなくぶち込まれたストレンジなアイデア、マンガ的な描写とリアルな人間観察が同居する演出、全てがスバラシイ!この監督、なんでどうしてこんな映画を作ろうと思ったのか?どんな映画が好きなのか?趣味が良いのか悪いのか?マンガが好きそうという以外全てがナゾ。意識的にヘンテコなことをやってる小賢しい部分、ワザと外して受けを狙ってる部分は微塵も無く、とにかく全編、全力のフルスイングぶり。どこまでが意識的、自覚的なのか?天然なのか思慮深いのか?ただただ画面から立ち上るただならぬ情念と熱に圧倒されるのみ。「言葉で説明出来無いから映画を作る」と言う人は大勢いるが、正しく言葉に出来無いことを映像で表現している傑作です。こんな映画どっかで見たなーと思ったら「ドニ―・ダーコ」であった。あの映画も説明に困る情念映画であった。主演女優が今人気の「韓流テレビドラマ」の出演者と言う事もあって、普通の「感動韓流映画」だと思って映画館に来た善男善女が次々と途中で席を立って帰って行く姿が印象的でした。
何かと言うと「感動の涙を流した」と言うことが至上の価値のように言われる昨今の映画状況。一方で映画好きは趣味の良い映画についつい走りがちになるご時世にひょっこり現れた、この分類不能のバイオレンス映画の存在感の素晴らしさよ。かつてホドロフスキーは「映画で見る人を負傷させたい」と言いましたが、自分はこの映画でダンプに轢かれたくらいの大怪我しましたよ。映画を見ることも、「体験」「出会い」なのだ。この映画を「良い映画だから見てみたら」と人に勧める気は毛頭ありません。自分が受けた衝撃だけが大事なのです。
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漫才ブーム直撃世代の自分にとっては、たけしさんと言うのは神に等しい存在だ。自分は大阪出身だが、関西のコンビよりもツービートが好きだった。ツービートのネタはテレビドラマや映画の矛盾点をつくネタが多かった。青春ドラマや時代劇の安易で型通りな演出を徹底的に愚弄するたけしさんの視線は、面白いだけでなく的確な批判になっていた。最初にたけしさんが本人主演の刑事ドラマの映画を監督する、と聞いた時は「『刑事ヨロシク』みたいな映画やったらどないしょう」と思ったが、実際に見た「その男凶暴につき」の針の振り切れようを衝撃的であった。漫才ブーム時代のネタそのままに、型通りの刑事映画の盛り上げ方を徹底的に排除した言行一致振りと、スカしたオフビートものでは決して完結させない容赦のない暴力描写、良くある住宅街の街並みやマンションの部屋をリアルで緊張感のある映画の画面に化けさせるシャープな絵作り。漫才でクサしてた日本映画やテレビドラマに対して、言葉でなく実践で「オレならこうする」と反証して見せた傑作であった。自分はたけし映画でつまらないと思った映画は一本もない(但し「DOLLS」は見てません)が「3-4x 十月」(トヨエツ最高!)と「キッズリターン」が特に好き。今回の「TAKESHIS’」は、そんな自分のたけし映画趣味にはズッポリとはまった映画であった。どこに行っても顔を出しては自分の邪魔をする古女房(岸本加代子)とセックスの相手としての若い愛人(京野ことみ)、テレビの収録現場でスタッフや共演者達に感じる苛立ち、殺しても殺しても付き纏って来るヤクザ。真情吐露とサービス精神の境界を邪推せずにはいられない構造で興味津々。ラーメン屋やコンビニやタクシーの車内で交錯する妄想と実人生。見たもの、体験した事、束の間の妄想、全て映画のネタになるという生活をそのまま投げ出して(るかの様に見せて?)も映画になる男、自己言及がそのままエンターテイメントになるという人は、もはや日本にはたけしさんしかいないのではないか?異常にしつこい後半の反復は正直少し食傷したが、これもたけしさんには必然があるシーンなのであろう。駐車場で札束が飛び散るスローモーションのシーンなどは抜群に印象的なのだが、こういうとこは事の外サラリとしてて、これはたけしさんの美学なのか。全てコントロールされてるかのような、無作為なような気分のうつり替わりそのままのようなテンポ感。たけしさんは、自分の生理のリズムをそのまま反映したような映画を作りたかったのだろうか?この結構回りくどい自分語りが、正直なのかウソばっかりなのか、楽しんでるのか、苛立ってるのか、サービスなのか、またはその全部なのか。だけど自分はたけしさんが好きだからこの映画も面白い。これは2005年版の「たけちゃんの、思わず笑ってしまいました」「15秒に一回笑いのあるドラマ」だと思ってありがたく見せていただきました。チケット代はお布施みたいなもんです。本人役の美輪明宏さんが大変印象的でした。映画の演技であった。
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世界中の映画好きが、『ラスベガスをやっつけろ』以来の新作を待ちわびていたテリー・ギリアム。新作『ブラザーズ・グリム』は「近世を舞台に、グリム兄弟を主人公にして、色んな童話・メルヘンを引用した伝奇ロマン」だという。こりゃまたギリアムにピッタリの企画じゃないの。実質一週間で撮影が破綻してしまった「ドン・キ・ホーテを殺した男」の映画化の顛末を描いた、『ロスト・イン・ラ・マンチャ』見た時は、「しばらく新作は無理なんじゃあ」と思ってたが、意外にアッサリ好適な企画に巡り合ったモンである。この映画がうまくいけば、念願の企画である「ドン・キ・ホーテ~」もまた動き出すかもしれない。と色んな意味で期待して、映画に臨んだのであるが・・・。
この映画の主人公のグリム兄弟はインチキ霊媒師という設定。実際の兄弟は堅物の大学教授だったらしいが、相当大胆な脚色である。幼少の頃、父親が死んで極貧だったのは事実で、同時代に生きたアンデルセンとも交流があったりしたらしい。映画の兄弟は田舎の純朴な農民を、インチキ超常現象でダマしては小銭を稼ぐ日々。今日も今日とて子供が連続して失踪しているという村に出向く。いつもどおり、マッチ・ポンプの心霊ショーでお茶を濁して退散するつもりが、どうもこの村にかかってる呪いはガチンコらしいことがわかる。兄貴は腰が引けてるが、長年モノホンの超常現象を求めていた弟は大興奮。果たして兄弟は村にかかった呪いを解けるのか―というお話しが、「赤頭巾」「ラ・プンチェル」「スリーピング・ビューティ」「魔法の斧」「ジャックと豆の木」「狼男」「雪白姫」「ヘンゼルとグレーテル」なんかの引用を織り交ぜつつ展開される、と聞けば文句無しに面白そうな世界なんであるが・・・。これがなんとも熱のない、微妙な雰囲気の映画なのだ。やっぱり雇われ仕事と自分の企画じゃ気合の入りようが違うのかなあ。「ドン・キ・ホーテ~」がもう一度動き出すことはあるのか?はちょっと微妙かなあ。
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エミール・クストリッツァ(変換がメンド臭いぞ)の新作「ライフイズミラクル」は関西では不遇扱い。8月に大阪のミニシアターで2週間→9月に茨木(大阪と京都の間)のシネコンで2週間→10月に京都のミニシアターで2週間というスケジュールでドサ回りして、プロモーションもほとんど無し。行こうと思ったら終わってるの繰り返しでなんとか京都の上映に。クストリッツァは「アンダーグラウンド」において、カンヌのグランプリを受賞し、熱烈な賛辞を得た一方で、「この映画はセルビア人によるモスレムの虐殺を肯定してる」と痛烈な批判も浴び、その批判にスッカリ嫌気がさした彼は、一旦映画界からの引退を表明してしまった。まあ「荒廃した国土に詠嘆を捧げる前に民族浄化をなんとかせいよ」と言う批判には一理あるのではあるが。自分は、ボスニア紛争でセルビア人がモスレム人に対して行った非人道的な民族浄化(と言う名の集団レイプと大虐殺)について無知のまま、「クストリッツァの映画は面白いんだから、映画と政治は別なんだから楽しめば良いやん」というのはちとマズイ気がする。彼は当然虐殺者ではないが、しかし彼の映画を「虐殺を肯定するプロパガンダだ」と批判する人々にも当然そうする必然があるのである。そのような批判と直面するリスクや緊張感を知ってこそ、それでもなお自分の信念に基いて表現の自由を追求する彼の映画が感動的になろうというもんである。まあ自分のような野次馬の応援などなくとも、不屈の彼は引退を撤回し「黒猫・白猫」で復活。これは個人的にはあんまり面白いと思わなかったが、次作の「スーパー8」が凄かった!自分がバンマスでギター弾いてて、息子がドラム叩いてる、ロックバンドのツアードキュメントと言う究極のオレ節映画だが、とにかくバカ!アンチ癒しの乱痴気映像の連続で、見るものに根拠不明の闘魂を注入する、無責任映画の傑作であった。で今作「ライフ・イズ・ミラクル」に対する期待は当然高かったが、見てビックリこれは「アンダーグラウンド」に落とし前をつける映画であった。主人公はボスニアの田舎に線路を引いてる鉄道技師。素朴な仕事人間で、鉄道敷設と、趣味のブラスバンド、鉄道模型を楽しみながら田舎暮らしを満喫してる。元歌手で派手好きカミさんの方は、田舎に辟易して都会に帰りたくて仕方が無い。息子はサッカー選手で都会のプロチームでのプレーを夢見ている。セルビア人とモスレム人とペット、家畜、野性動物が共存する平和な村に突然内戦の影響が現れる。都会のクラブに入団するはずの息子が徴兵され、軍隊に。息子が居なくなったショックか何なのか、田舎と退屈なダンナに飽き飽きしたカミさんは、胡散臭い旅芸人(「スーパー8」でブルース・リーごっこしてた人)と駆け落ちしていなくなりオッサンは一人ぼっちに。夜な夜な悪友とのヘボ将棋で気分を紛らわすが、出征した息子が捕虜になってしまったと言う最悪の知らせが。そんなある夜職業軍人してる息子の悪友が、ムスリム人の看護婦を拉致してオッサンに引き渡す。曰く「この女を幽閉しといて、人質交換で息子と取り替えれば良い」。というわけで、看護婦はオッサンの家の居候となる。実はこの二人、袖擦り合うも多生の縁で憎からず思い合う同士であった。捕虜のはずの彼女とデキてしまったオッサンは、マジメ人間である事を辞めて己の心の命ずるまま愛の世界に落ちて行く。田舎屋のベッドで抱き合っているうちに、辛抱たまらなくなって裸のまま絡み合ってゴロゴロと転がりだし、ベッドから出て、家も出て、荒野をどこまでも転がって藁の山にドスンとぶつかってしまうシーンのプリミティブな愛の賛美ぶりの凄さよ。このムスリム女性役ナターシャ・ソラック嬢、脱ぎっぷりもいいし、戻ってきたカミさんと壮絶に殴り合うシーンでの根性もすごい。デッカイケツにグイグイにじり寄る、中年目線のカメラアングルもうれしい。クストリッツァもオレと同じ、骨太ケツデカ美人好きなのか?世の女性の皆さん!無理なダイエットは百害合って一理無しですよ!と、これもクストリッツァの大事なメッセージ。この映画、主人公の息子を取るか彼女を取るかという葛藤に主眼が置かれてるはずなのだが、悩まなければならないはずのオッサンは一切ウジウジしないで、「俺はどっちも欲しいんだ!」とばかりに自分本位に大暴走。ストーリーは一向に転がらず、一歩進んでは脱線すると言う按配。で、またこの脱線シーンが一つ残らず面白い。「鉄道なんか苦労して引いても仕方ないんじゃないの」と皮肉を言われた主人公が「日本を見ろよ。あんな狭い国土にくまなく鉄道を引いてるじゃないか!」と切り返すセリフにもビックリ。日本の電車は世界一ですか?!ムツゴロウ特番よりも、沢山登場して大活躍するアニマル軍団にも、「国民である前に、男と女である前に、人間も動物なのじゃ」というメッセージがこめられているのでは。この映画の描写にもきっと色々と批判があることでしょう。が、彼が自由の味方なのか敵なのかは映画を見れば一目瞭然でありましょう。「政治的な自由は 人間の自由の一部に過ぎない」(寺山修司)ということです。テレビのレポーターを殴る刑事ドラマみたいなシーン見ても解るようにこの人はやっぱり直球勝負の人なのだ。配慮の効いたバランスの取れた映画を見たい人はよそに行きなさい。本来苦いはずのオチも鮮やかで堪能しました。
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といえば、現在日本では仏恥義理で自分の住んでる大阪ですよ。街を歩けば引ったくり、電車に乗れば脱線事故。三菱銀行立て篭もりから、グリコ・森永事件、毒入りカレー事件、池田小事件なんかの異常犯罪の数珠繋ぎ。鶏インフルエンザ、Oー157、雪印集団食中毒、狂牛病の牛肉偽装は全部関西発。『大阪の食い倒れ』ってこういうこと?中学校の先生が、出会いサイトで引っ掛けた少女を高速道路に転落させて死亡させたかと思えば、女児誘拐事件は解決・未解決含めて後を絶たず。税金はいっちょ前に高いが自治体は放漫経営でまるでいいとこ無し。関西は昔から「お上も警察も役立たず、キライや」と言う人が多いから、悪徳度はもともと高いがそれにしても最近の底抜けぶりはちょっと異常ではある。そんな関西三都物語の行く末を照射する予言映画が「シン・シティ」。原作コミックは読んだ事ありませんが、この映画のルックはコミック原作映画化の極北を思わせる。ゴリラみたいになってしまったミッキー・ロークの映像はもはや映画の範疇を超えている。拷問の末に達磨大師になってしまうイライジャ・ウッドと、薄幸な愛人(ブリタニー・マーフィーちゃんハマリ過ぎだが花がない!)をグーで殴る悪徳警官デル・トロ、Aムービーの主演クラス二人が嬉嬉として人間のクズ役を演じてるのもナイス。「掃き溜めのツル」的役割ジェシカ・アルパの人工的美しさも完璧だ。ただ、ルックとキャストが完璧でも、映画自体には心底乗ることは結局出来ずじまい。どんなに陰惨で壮絶な暴力を描いても余りにもスタイリッシュ過ぎて、ゲームの画面を眺めてるよな気分になるのである。丁度同じ時期、DVDで「旺角黒夜」を見たのだが、こっちの暴力シーンは文字通り目を背けたくなるような迫真性があったのだが、「シン・シティ」のバイオレンスはアクロバチックだが「ほほー」と直視出来てしまうのである。アメリカ映画の刺激的暴力描写も出尽くした感が致しました。はたまたこっちが刺激に麻痺してるだけなのかわかりませんが、映像体験として一見の価値はあるものの、映画としてはスクリーンのコッチ側の現実にぐわっと侵食して来るような迫力は観じませんでした。悪徳の町がファンタジーにしか存在しないならまっこと結構ですが、送り手としては、このポップさは意図した物なのか、不本意なものなのか?正直疑問が残りました。「御行儀の良いアメリカ映画に、うちらが一発食らわすぜ!」という映画が、正にアメリカ映画的な、スクリーンで完結した一時の娯楽としての暴力を提供しているだけだとしたらマズいんではないかい?
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今じゃCDもあんまり買わなくなったが、十数年前大学生の時は音楽雑誌などこまめに買って新しい音楽をせっせと聴いていた。当時は丁度グランジやミクスチャーロックのブーム。ササクレ立ちを競い合うかのように次々と勃興する爆音ロックバンドのCD群をラジカセに突っ込んで三畳一間の木造アパートで聴いてる男一匹…。ミジメな青春である。その他にもパブリック・エネミーやBDPなんかの過激ラップ、スラッシュメタルのバンドなど雑誌に薦められるまま何でも聞いていた。がHR・HMに夢中になったことは実は今までの人生で一度も無い。スラッシュ系のバンドでもアンスラックスやスイサイダル・テンデシーズはアホっぽくて好きだったのであるが、メタリカやメガデスみたいなヘビメタよりのバンドは生真面目と言うか大袈裟でなんか好きになれなかった。グランジ系でもサウンドガーデンは今でも聞くが、パールジャムやアリス・イン・チェインズは面白いと思った事ないと言ったら、私の嗜好が解って頂けるでしょうか?と閉じた話はこれくらいにしてそんなバンドバブルを生き残った希有なバンド、メタリカのドキュメンタリー映画が「メタリカ 真実の瞬間」。ロックバンドといったってメタリカくらいになると、CDの売上げやツアーで何千人という大人の飯のタネになるリッパな産業。本来停滞は許されない。のであるが、土台人間がやってる事。まして二十年選手となればアイデアも尽きてくるし、始終顔をつき合わせてるメンバーにも根拠不明の憎悪が募るお年頃。また当時ファイル交換ソフトの『ナップスター』を著作権法違反で告訴したら「億万長者のロックスターが貧乏な音楽ファンの楽しみを奪うのか!」とロック小僧から総スカンを食うという誤算もあって、メンバーのテンションは地を這う様に低い。ニューアルバムの録音の為プレシディオの元々軍施設だったビルに機材を持ち込んでカンヅメになるバンド。「自分のソロプロジェクトを始めたから」というイチャモンのような理由で元々キライだった節のあるベーシストを首にしたばかりだが、ベースはプロデューサーのボブ・ロックに弾かせるという方針で走り出し、なんとベーシストより先にセラピストを雇う。この月給四万ドルというセラピスト氏は、NFLなんかのプロスポーツチームに雇われてはエゴの塊のようなスポーツエリートにチームプレーの意義を叩き込む専門家なのだという。メンバー同士の気の滅入るような口喧嘩の聞き役に徹して、徐々に人間関係の問題点を炙り出してレコーデイングも順調に…。と思いきやボーカルのジェームスが断酒クリニックに突然入院、大金かけてセッテイングされたレコーデイングは一旦お開きとなる。一年以上の中断を経てジェームスも晴れてクリーンな体となり、さあレコーディングと思いきや彼は「リハビリや家族と過ごす時間を取るため」平日の午前中しかレコーデイングに立ち会えないと言い出す。夏休み前に貰うプリントに「勉強は涼しい午前中の内に終わらせましょう」なーんて書いてあったもんだが、イイ大人がそんなやり方で能率が上がるはずもなくレコーディングは超非効率的。またこのジェームスってオッサンは自分の都合でメンバーを待たせておいて「俺が家に帰った後、残りの人間でプレイバックを聞いたりするな!」と女の腐ったような事を言い出す始末。まあ関西弁で言う「気にしい」というやつで、アル中になった原因もこの辺にあるような…。「俺の居ない所で物事が決まってくのは許せん!」と息巻くジェームスの横で、「オレはいつもそうだぜ」とこぼすギタリスト、カーク・ハメットの不憫な事といったら…。ドラムのラーズは「もうこのバンドでプレイしても、昔みたいに楽しくないんだ…」とこぼす。バスキアやカンディンスキーなんかの馬鹿でかい抽象画を飾りまくった、成り上がり御殿のリビングルームのソファに腰掛け「音楽も抽象画と同じだ。どこまで行ったら完成と言えるのか?」と選ばれし者の恍惚と不安に身を焦がすラーズは、なんだかんだ言って誠実な人のような気がする。
まあバンドがいかに産みの苦しみを超克するかは実際に映画を見ていただくとして、圧巻なのは終盤の、新ベーシストのオーディション。世界中から呼びよせたキラ星のような有名ベーシストとメタリカの曲をセッションしながら、メンバー自身が選考して行くのだが、最終的に選ばれたのがなんとロバート・トゥルージロ。スイサイダル・テンデシーズの胸板ベーシストじゃねーの。バカテクで重低音をうねらしまくる奴サンのプレイにガツンとやられたメンバーはその場で100万ドルの小切手を切って即契約。「これから君が受け取る成功報酬のほんの前渡金だよ」と嘯くんだからタマラン。アルバム完成後ラーズは自慢の抽象画のコレクションをサザビーズのオークションで売ってしまう。サザビーズのビップルームでカミさんとシャンパン飲みながら、自分の絵の値段に一喜一憂する姿は、まあ嫌味といやあイヤミなんだが、ロックスターが自分の財テクまで曝け出すって凄いじゃないの。小室哲哉がフェラーリ売ってるのとはワケが違うぞ。
「エニイ・ギブン・サンデー」でロッカールームでメタリカかけて「うおー」っとオダ上げてる白人選手を、「ナチの音楽は止めてくれ」と黒人選手が冷やかすシーンがあったが、メタリカの本拠地はリベラルの総本山シスコ。メンバーの人種だってスッカリ混交してるし、ジャンルとしてのヘビメタとはとうに決別してる。思えば同じ西海岸のフィッシュボーンやRHCPだってあらゆる音楽を等価に聴いて咀嚼してきたバンドであった。ミュージシャン達も盛んにメンバーチェンジしながら交流している。シアトルからシスコ、LAまで面白きゃ良いじゃんとばかりにあらゆる音楽が混在する西洋のどん詰まり、アメリカ西海岸のデタラメな奥深さは感じられる一本です。
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ロアルド・ダールの代表作といえば寺山修司の競馬エッセイに何度となく引用されていた「南から来た男」。自分の指をかけるギャンブラーとの出会いの物語は、「フォールームス」のタランティ―ノ監督エピソードにもオチだけかえてそっくり引用されてたっけ。そんな後味の悪い短編小説の名手ダールさんが書いた超有名童話「チョコレート工場の秘密」の映画化はティム・バートンの念願の企画だったのだという。「猿の惑星」で観客には苦痛のみを与えといて、自分はちゃっかり主演女優と結婚しイギリスに移住してしまったバートン氏。だが理想の生活環境を得た成果か去年の「ビッグ・フィッシュ」はバートンらしい大変良い映画であった。「チャーリーとチョコレート工場の秘密」も当然バートンは絶好調で面白い!
映画の導入は主人公の少年チャーリーとその一家の底抜けな貧乏生活をギャグにするという不謹慎目線。傾いたボロ屋、三食キャベツの食事、甲斐性無しのオヤジ、一個のベッドで寝たきりの4人の祖父母(ちょっとボケてる)、等々を肴にしながら、誕生日に一枚だけしか板チョコを買ってもらえないチャーリー少年が、いかにして世界に五枚しかない工場見学の「金のチケット」をゲットするのか?を快調に描く。けなげで心優しいチャーリーとともに工場見学に選ばれたのはワガママな金持ちの娘、大食いの肥満児、上昇指向の子役タイプ、ゲーム狂いの天才児、とイヤなガキばっかり。そんな五人が保護者同伴で訪れるチョコレート工場を経営するのは、ナゾのチョコレート王ウイリー・ウオンカ氏。お菓子作りの天才だが明かに人格破綻者のこのオッサンを、ムリからのマイケル・ジャクソン風味で演じるジョニー・デップのアホさよ。ウオンカ氏は何十年も前に産業スパイを恐れて従業員を一斉解雇して以来、工場の内部はナゾのまま。ウオンカ氏は果たしてなんの為に子供達を工場に招待したのか?
秘密の製造ラインに足を踏み入れた一同がまず目にしたのは小さいオッサンのむれ。ウオンカ氏がジャングルでスカウトした『ウンパルンパ人』と言う小人の軍団が日夜お菓子作りにいそしんでいたのだ!普通小人と言えばかわいい顔してるもんだが、このウンパルンパ軍団はタクシーの運転手か競輪の予想屋ばりの苦みばしった、しかも全員同じ顔。歌と踊りが大好きで、なにかあると全員でミュージカルを始めるのだが、顔は無表情のまま。この歌のシーン自体は原作通りで歌詞もそのままだがこんな笑えるシーンじゃないはずだぞ?!映画ならではの『小さいおっさんオッサンの無表情ミュージカル』が本能に訴えるおかしみのスゴさ!松本人志みたい。ダニー・エルフマンの音楽も最高!オインゴ・ボインゴ聞きたくなった。「スケルトン・イン・ザ・クローゼット」のカセットどこ行ったかなあ?見学の過程で工場の秘密に触れて興奮した子供達は、ウオンカ氏の注意を無視して手前勝手に行動し次々とヒドイ目に遭って行く。この辺の描写は「良い子でいましょうね」という教訓というより「生意気なガキを苛める喜び」の方に主眼がおかれているキライが…。まあ子供からみりゃ説教くさい話だろうから、児童映画として思ったようなヒットが得られなかったというのもむべなるかな。イギリスじゃあ「子供は動物と一緒だから躾して人間にするんだ」って方針だって話も聞いた事あるが。貧乏だが健気で良い子のチャーリーに最後に訪れる幸運はまあ童話のお約束。原作にないウオンカ氏の親子の和解のエピソードは蛇足な気もするが、まあバートン映画としては大満足な一本です。透明エレベーターの部分の映像もすばらしいと思います。
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もう11月の声を聞こうと言うのに…。プロの文筆化の人でブログやHPでもタダで読める文章アップしてる人たちってほんとすごいですね。筆マメになりたい。って35歳にもなって言ってる時点でダメか…。
『黒い夏』ジャック・ケッチャム(扶桑社ミステリー文庫)…自分は5・6年前から読書傾向が変わって、読むのはノンフィクションや読み物ばっかり。ホント小説を読まなくなったがジャック・ケッチャムだけは別。「ハリー・ポッター」の新刊を待つ良い子達の様に発売日に買って、その日の夜のうちに徹夜して読む。今作も600ページ近いが、平易な文章(でもクールで歯応えあり)でスイスイ読める。今回もいつもの世界で当然面白し。1960年代(劇中マンソンファミリーの殺人がラジオニュースで流れる)の一見平和な田舎町で、退屈を持て余したボンクラの余りにもしどけない殺人に巻き込まれる人々の姿を描く。相変わらず異常な物を解剖的に冷徹に描写する手際は鮮やかで、露悪的な鬼畜系とは一線を画すダンディズムに痺れっぱなし。
『実録 田中角栄と鉄の軍団』(上中下巻)大下栄治(講談社+α文庫)…こないだの選挙で旧田中派→経世会と連綿と続いた「土建屋ガハハオヤジ」軍団による政治支配体制は実質的に崩壊した訳であるが、郵政事業のこと以外を聞かれると途端に年相応のおジイチャンになってしまう小泉首相や逆ギレしたイジメられっ子のようにエキセントリックな竹中平蔵がそれよりマシというわけじゃない。その他にも、大敗に大人気なくふてくされてた小林興起や亀井静香、夜は正常位一本槍と言ったムードの岡田克也なんかの平成の政治家たちのコクの無さはどうしたことか?田中角栄は、成績優秀でありながら家庭の事情で進学をあきらめたが飛びぬけた起業家マインドで事業の道で成功を収め政界進出。列車が運休になるような大雪でも線路を歩いて寒村を巡り歩いて、個人演説会で浪曲をがなって聴衆のハートをキャッチ。優秀な頭脳と行動力、独自の人心収攬術と資金力をタテにしたカネ離れの良さ(野党議員にまで金を配ったという)で金丸、竹下からハマコーまで続々と子分を増やし「鉄の結束」と言われる田中軍団を形成。異例の若さで総理大臣となり自分の政策を本(「日本列島改造論」今考えても凄い書名)にして出版すれば大ベストセラー。日中国交正常化という大仕事を果たし、ロッキード事件で刑事被告人となって後も自分の命令一下で手足の様に動く代議士を100人以上有してキングメーカーとして日本の政治をリモコン操作し、無罪判決と総理大臣復帰を画策しつづけたというデタラメにスケールのデカイ男。死してなお旧田中派議員や、悪口番長田中真紀子を使ってオシャレな平成の巷に、昭和の妨害電波を発しつづけるコクの深さはタダ事ではない。面白エピソード満載の本書ではあるが、アメリカに戦後復興の為に借りた資金を返済する方法を大蔵官僚の長大なレポートを捨てて勝手にまとめたってエピソードは凄いなあ。あと自動車重量税(重い自動車ほど道路を痛めるから税金が高い)も角栄の発案なのだという。しかしこんな合理的な角さんも、こと自己保身が絡むと途端に凡夫となるのはどう言う訳か。自分は40代で先輩を出しぬいて首相に成ったくせに、竹下には「十年くらい待てんのか」とジラシプレイを強要する辺りは権力の魔力というヤツか。田中軍団の日本の企業社会に通じるホモ的結合もチョット気持ち悪い。「田中角栄の金庫番」「越山会(角栄の後援会)の女王」と言われた角栄の秘書佐藤昭子と田中派議員の関係もなんだか気色悪い。議員たちがみんな佐藤女史のことを「ママ」って呼ぶんだもん。佐藤が渡辺恒三(ギンギンの中年)に「コーちゃん」と優しく呼びかけてオヤジの意向を伝えると「わかっているよ、ママ」と返す渡辺。うひ~気色悪い!
『まともな人』養老孟司(中公新書)…雑誌の連載時評をまとめた物。何を語っていてもいつのまにか昆虫採集の話になってしまう養老節は相変わらず快調。「日本の子供は一日平均6時間、テレビを見ているという調査がある。それなら文部科学省はテレビの中身を検定しているのか。」と昨今の党派的な教科書論争の不毛を訴え、「日朝首脳会談のおみやげのマツタケである。日本側で焼き捨てたという話しを聞いた。俺にくれりゃいいのに。」とのほほんと言い切ったあと「北朝鮮とは、いまだ具体的に存在する日本の戦時である」と喝破する。「私が原理主義一般を警戒するのは、それが役に立たないからではない。時にあまりにも有効だからこそである。」相変わらず凄いぜ、養老先生!日本一のリアルラッパーだ。
『本業』浅草キッド水道橋博士(ロッキング・オン)…タレント本書評集。博士の本がつまらなかろうハズも無し。ヤマタクの愛人の著書が爆笑モノ。
『誤読日記』斎藤美奈子(朝日新聞社)…これも書評集。ベストセラー本中心なのでタレント本も多し。貴乃花親方と景子夫人が出したヘンな絵本の紹介がウレシイ。『小泉純一郎写真集』にのってるという首相自作の短歌も凄い。「うるわしき いとしの君と デイトする 心ときめく 宵のひととき」「ほほよせて 好きよなんでも あげるわと ささやく君の 若さいとしき」これが短歌?ちなみに斎藤氏の感想は「だれかなんとかいってやってよ。」簡潔。
『特捜検察の闇』魚住昭(文春文庫)…前半は極貧から身を起こし苦学して特捜検事になった田中森一の人生。叩き上げの、自称「検事の土方」が上司と対立して辞職後、ヤメ検弁護士として許映中や宅見勝らの顧問として「関西の闇社会の守護神」となる顛末。後半は松本智津夫の主任弁護人であり、死刑廃止運動の運動家でもある安田好弘弁護士の逮捕と信じられないような間抜けな裁判の事実経過。安田氏の罪状は中坊「プロジェクトX」公平氏率いる住菅機構の調査を逃れる為、ある不動産会社の資産を隠したという疑い。ところが検察側の証人が実は自分の横領を隠す為にウソをついていた事を法廷の場で暴露され、検察側の証拠固めはガラガラ崩壊して行く。リッパな大学を出て、難関の国家試験を突破した検事が、チョット調べりゃすぐわかるドロボウのウソをなぜ見抜けなかったのか。杜撰な捜査や強引な起訴の裏には、国家権力に楯突く生意気なヤローはパクって締め上げてやれ(魚住氏はこんな下品な表現はしてませんよ)という意図があるのだという。いわゆる国策捜査ってやつだ。まず意図があってその後証拠を恣意的に取捨選択して、自分達の都合に良いように論理を組み立てて行く捜査手法。魚住氏はかつて『特捜検察』と言う著書でエールを送った検察の変貌振りを容赦なく暴く。そんじょそこらの法廷ミステリーよりよっぽど血が騒ぐ好著。楽しんで良いかは複雑な気分だが。
『ドキュメンタリーは嘘をつく』森達也(草思社)『放送禁止歌』森達也(知恵の森文庫)…どっちも書名のままの内容です。「ドキュメンタリーとジャーナリズムは全く相容れない物だ」と断言する森さんの凄さ。『放送禁止歌』のD・スペクターと森さんの対談は非常に面白いです。去年大阪の毎日放送が「池田小事件の被害者家族に対する配慮」から「ニュース23」でのミスター・チルドレンの歌の放送を自粛した事があった。がその歌はその後カップヌードルのCMソングになってテレビから何回も流れていた。一体何の為の自粛なのか?今テレビ局の上層部には学生運動やってたような世代も大勢いると思うが彼らの中で人生の整合性はどうなってんだろうねえ。別に彼らに対する期待も幻想もないけど。常に個人として自分の立っている場所から意見を言う森さんのような勇気ある人間はいないのだろう。
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SFというのは定義が誤解されている度合いの非常に高いジャンル。例えば「スターウオーズ」のシリーズには宇宙船や異星人、未知の惑星が登場するが、SFではなくてスペースオペラと分類されるべきもの。と断言すると異論のある向きも大勢居られるでしょうが、ライトサーベルや超能力や宇宙船は、剣と魔法と馬にソックリ置き換え可能の世界。実際ルーカスも世界中の神話や民話を研究してSWサガの物語を考えたのだと言う。SFのSはサイエンスのS。宇宙とはなにか?人間とはなにか?生命はどこから来てどこに行くのか?こんな高邁なクエスチョンを一人の男が捜し求めて宇宙を遍歴する物語は間違いなくSFである。「銀河ヒッチハイクガイド」はそんな問いを真正面からでなく斜めから追求した、SFと言うジャンルに対するラブレターのようないかした映画であった。オープニングでイルカショーの映像に合わせて流れる主題歌は人類へのイルカからの惜別のメッセージ。「今まで魚をくれてありがとう。人類はもう終わりだよ」という歌が終わると、イギリスの郊外、バイパス工事で強制収用寸前の自宅の前で大の字になっている主人公。しかし実は地球全体が宇宙のバイパス建設の為に立ち退き勧告を受けていて(当然人類には理解不能だが賢いイルカは知っていて…というのがオープニングの歌詞の意味)強制収用寸前。主人公はたまたまある宇宙人の命の恩人だった為に(この辺は理解不能でも読み進んでください)地球の滅亡を知らさされる。世界の上空を真四角の宇宙船がビッシリと埋め尽くす。地球は不精ヒゲに覆われた様に宇宙船に取り囲まれ、一発アナウンスがあった後、大戦争にもならずに一瞬で消滅。その瞬間主人公は宇宙人が突き立てた親指(ヒッチハイク用の指輪をはめてるらしい)から発せられた光線に導かれ侵略者の宇宙船に。宇宙でただ一人の地球人となった主人公の遍歴の供となるのが宇宙イチのベストセラー「銀河系ヒッチハイクガイド」という本。と言ってもシステム手帳みたいなモバイルみたいな代物で宇宙に関するあらゆる知識が網羅してあるデータベースのような物だ。「不思議ちゃん」なもう一人の生き残り地球人、官僚主義でデザインの観念がない宇宙人、宇宙最高の処理速度を誇る頬杖ついた巨大コンピューター、ノドから別人格の顔が生えて来る銀河系大統領、鬱気味で陰気なロボット、そして地球の全てを作った創造主と、行く先々でアホと出遭う銀河の股旅道中は「21エモン」(藤子FさんのFはSFのF)ミーツ「モンティパイソンの人生狂騒曲」と言ったテイスト。と思ったら原作者は初期「モンティ」にチョロっと噛んでたらしい。そういや「人生狂騒曲」もラストでメンドクサそうに人生の意義を説明してたなあ。主題歌の能天気なとこも似てる。がこの人の宇宙観は一言でアホとは言い切れん含蓄がある。人類がメチャクチャなのは宇宙がメチャクチャやからという視点。「ベンチがアホやから」と言ったのはエモやんだが、宇宙の摂理、創造の神がアホだから人類もアホだという視点。調和でなく混沌を志向する宇宙観。アメリカもイスラムも日本も中国もナルシステイックな原理主義で先鋭化するご時世に「自虐でイイじゃん」と言い切るスーダラな軽妙さはお見事である。
人間は神の創造物だと考えるの勝手だが、飯を食ったら臭いウンコが出て来たりする詰めの甘さを見ても神様のイイカゲンさがわかろうという物。国家や宗教と一体化して吹きあがるか、自分の肉体という小宇宙・自然を尺度に物を見るか。別にカオス理論なんか持ち出すまでもなく、この世はメチャクチャでだから面白いのだ。
オープニングの流れるようなイルカショーの映像、異星人やメカのデザイン、ヒッチハイクガイドの挿絵のCGアニメ(エンディングも必見)まで映像面もオッシャレーで大満足の一本でした。
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以前ノーベル賞取ったナントカ言う学者が「私がノーベル賞取ったのも全て遺伝子に書いてあるんです」と言ってるのを聞いて仰け反った憶えがある。物理学賞かなんか取ったオッサンだったが、科学者と言っても科学的な思考が出来る訳ではないらしい。ノーベル賞とったヤツが遺伝子なんてタームを使って語ってるとなんかスゴイ事言ってるかのような錯覚を覚える人がいるかも知れんが、要するに頭の茹だった恋人同士が「自分達の出会いは運命なんだ!」と炎上してるのと同レベルのナルシズムである。だったら戦争や飢餓で死ぬ子供も、頭のおかしい通り魔にタマタマ刺されて死ぬ人も遺伝子にそう書いてあるんかいな!偉大な国家(世界の警察、神の国、地上の楽園なんでもいい)に生まれ付いた運命なら他の国の国民を殺しても良いのか?もしもこの世の全てが見えない力で決定付けられているなら、神だか創造主だか宇宙意思だかなんでも良いがそいつはキチガイのはずだ。この世が狂っているのはデザインしたヤツの頭がおかしいからだ。てな世界観は日本やギリシャの神話に普通に描かれた世界観。最近の人間の宇宙観世界観はなんとも調和的で面白くない。遺伝子なんかで理論武装しないで偏見は偏見として提示するのがより人間的なはずだが。
自分が、今アメリカの映画作家で一番好きなトッド・ソロンズはいつだって報われない、間の悪い人間の行状を淡々と描いてきた映画作家。同時代のアメリカ映画の新鋭作家P・T・アンダーソンやテリー・ツワイゴフの映画もダメなヤツが主人公になる事が多いが、その視点は時にシニカルではあるものの極めて優しく、ダメ人間のダメエピソードも人間の愛すべき一面として掬い取られていく。要は希望があるのである。がソロンズの映画は、顔や頭(またはその両方)が悪く+自堕落で視野が狭く+異性ににコンプレックスを抱いていて+家族は冷たく+友人は自分を都合よく利用するだけ、てな誰も見たく無い様な気が滅入る人間を敢えて主人公に抜擢するだけでなく、理解不能な衝動に突き動かされた彼や彼女が生まれ持った負の力で自滅への一本道をひた走り悲惨な仕打ちを受けるに至る顛末を、卓越したテクニックで一切の感情移入を排して描ききって行く。が、ただ陰惨なだけでなく、救いが無いのになぜか笑えるというのが氏の作品の非凡さ。勿論その笑いはブラックだとかシニカルだとか言うレベルを超えた笑い。前々作の「ハピネス」(大傑作!)では小児同性愛者のオッサン(表向きは良きマイホームパパ)がお泊まりで遊びに来た息子の同級生に誘眠剤を挟んだサンドイッチを食わそうと悪戦苦闘する不謹慎シーンで大爆笑をとり、前作の「ストーリーテリング」では引きこもりの無気力高校生が自分がホストのテレビショウを夢想するシーンで見る者の意識をトリップに誘う。スケールが小さい話が多いので地味な職人と思われがちだか、自分にはキューブリックのような透徹した視点を持った作家だと思われるのだが。そのソロンズの新作「終わらない物語 アビバの場合」は十二歳で妊娠した主人公が堕胎手術によって子供が産めない体となるが、その事実を知らされぬまま自分の居場所を求めて遍歴するという寓話的な物語。今作はオーソドックスな劇映画でなく主人公の少女アビバを八人の異なった女優が順番に演じて行くという仕掛けが施されている。アビバは黒人になったり白人になったりデブになったりやせっぽちになったりしながら自分の子供が生める場所を求めて旅を続けて行く。この手法は主人公への感情移入を避けるためなのか、はたまた主人公は何者でもあるというメッセージなのか。旅の途中でカソリックの施設に流れ付いたアビバは偶然から、故郷の自分を手術した堕胎医とめぐり会うことになるが…。主人公アビバはソロンズのデビュー作「ウエルカム・トゥ・ザ・ドールハウス」(「田舎のプレスリー」みたいなボンクラバンドマンに惚れたブサイクな少女の物語)の主人公ドーンの従兄弟という設定。オープニングシーンは自殺したドーンの葬式。嫌われ者だったはずの彼女の葬式で家族や親戚や同級生は神妙に涙を流す。イジメられっ子には死んでも安息はない。アビバも善良な魂を自己中心的な家族によってすり減らして行く。家族や地域社会という与えられた世界に馴染めない二人の少女がひとりは自殺し、もうひとりは家出して自分の居場所を探すが、幸福はそう簡単に訪れない。映画に行く人の大半は一時つらい生活を離れて非現実的な夢物語を見たいのだと思うが、ソロンズの映画はつかの間のイジメられっ子体験、負け組体験、虫けら体験を強いる。人間に対する希望は留保したままだ。こんな映画のコピーが「世界は愛でいっぱい」というのは絶対におかしい。詐欺である。折角意欲的な傑作なのに。夢や愛や希望が無くたってイイ映画はあるのだ。運命に見放されていても面白い人間が一杯いるように。幸運だがイヤな奴は面白くないね。
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といえば昔は水野晴男の著書のタイトル、今じゃアメリカ合衆国のこと。「サウスパーク」のトレイ・パーカーとマット・ストーンがそんな世界警察の行状を「サンダーバード」へのオマージュ(?)たっぷりのあやつり人形劇映画にしたのが「チーム・アメリカ ワールドポリス」。チーム・アメリカはラッシュモア山の歴代大統領の巨大顔面像の中に秘密(といっても公然)基地がある対テロ戦争自警団?特殊部隊?というゴレンジャー的部隊。敵を排除するためならあらゆる犠牲を省みない、世界警察アメリカの行動原理を思いっきり分り易く象徴するクルクルパー集団だ。冒頭パリでイスラムゲリラの爆弾テロを阻止するが、凱旋門とエッフェル塔というパリの象徴を豪快に破壊する無神経ぶり。チームアメリカの分析コンピューターI.N.T.E.L.L.I.G.E.N.C.E(なんかの略らしい)はテロの黒幕は金正日だと示唆する。北朝鮮に乗り込んで金正日をたたっ殺して(アメリカの)平和を守ろうと奮闘するチーム・アメリカだが、敵はテロリストだけにあらず。愛国心の何たるかを理解していないリベラル派との戦いも熾烈を極める。一方で男女二人ずつのチーム・アメリカではメンバー同士の恋模様も複雑。北朝鮮空軍とドッグファイトしてる最中もずっと無線で痴話喧嘩してるが、片手間での戦闘でも圧勝!マイケル・ムーアの自爆テロで基地を破壊されたり、アメリカの映画俳優協会(略称FAG=オカマ)の重鎮ショーン・ペンやテイム・ロビンス、アレック・ボールドウィンから批判に晒されたりしながらも持ち前のフロンティアスピリットで苦難を乗り越えて、あらゆる敵を全員殺害してアメリカの平和を守ってメデタシメデタシ…というお話しをカクカクした動きの操り人形が演じるという余りにも針の振り切れた作品。あらゆる体位で入れるわ抜くわの大騒ぎを繰り広げる人形同士のラブシーンや、金正日の宮殿で(虎に見たてた)実物大の猫と戦うシーンの脳がとろけそうなアホらしさにこそ作り手の狙いがあると思うのだが、この映画を見た人は政治的なスタンスや残酷な暴力シーンに抵抗を感じている事が多いようだ。しかし「サウスパーク」や今作を見ると、トレイ&マットは手作りの味を大切にする職人タイプの製作者のような気がするんだが。劇中流れる下らない歌から有名人のソックリ人形まで手間隙をかけて下らない事を追求する姿勢はエライ!と言う人があんまりいなくてさびしいなあ。「もっとマジメにやれ!ふざけるな!」っていうが、実際戦争を始めるのは深刻ぶったマジメな人だからね。大体ほんとに不真面目な人はこんなメンドクサイ映画作らないよ。
2年前に鳥肌実のライブに行った時のこと。戦闘服を着た本職の右翼の皆さんが沢山来場されていて、「うわ!なんか抗議に来たのかなあ!」とビビってたら、普通にお客サンでなんだかほっとしたこと思い出しました。自分も含めサブカル好き文科系ばかりの客の中で無闇にガタイのいい集団は異彩を放ちまくりでしたが、北朝鮮や創価学会ネタで爆笑し、物販でキチンと整列して大量に手ぬぐいやTシャツを購入してる姿を見て、笑いの素晴らしさを実感したものでした。TVや映画では危険な笑いが排除されシャレの通じない雰囲気が蔓延する一方で、ネットなどの匿名空間では笑えない差別ギャグが氾濫する昨今ですが、「チーム・アメリカ」みたいな映画は手放しで応援したい!「相手がどう対処して良いかわからない方法で戦え」と言うフランク・ザッパの名言を地で行く力作だと思います!
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「スター・ウオーズ」(以下「SW」)の第一作を初めて見たのは小学生の時の悪名高い第一回地上波放送。番組冒頭なぜかタモリが出てきて、わざわざ来日したC-3PO、R2-D2の御両人と全く笑えないカラミを延々20分以上続けるジラシプレイでお茶の間の怒りを買い、やっと始まった本編はルーク=渡辺徹、レイア=大場久美子、ハン・ソロ=松崎しげるという小学生心にもなんだか微妙なキャスティング。その頃自分はクリストファー・リーブ主演の「スーパーマン」のシリーズが大好き(「冒険編」最高!)。ところが、アンテナ人間気取りの同級生が「『SW』はSFやで!フォースって知ってるか?『スーパーマン』なんかタイツ履いたオッサンが暴れるジャリマンや!」と「SW」の別格ぶりを矢鱈と強調する物だから相当期待して見たのだが、番組の演出方針やテレビ画面での体験という事を差し引いても正直「こんなもんかいなあ」と言う感想であった。アンテナ小学生も所詮は未チン毛年齢、シャープなデザインのメカ、ホログラフなんかの意匠や『フォース』『ジェダイ』なんて造語をSFだと勘違いしていただけなのだった。まあ確かに「スーパーマン」よりは啓蒙的な感じ(あくまで感じ)はするわなあ。中学生の時劇場で「ジェダイの復讐(現「帰還」)」を見たのが初めてのリアルタイムでの「SW」体験。これはサービス満点の映画で面白かった。宇宙船が壮絶なドンパチを繰り広げるクライマックスシーンでの魂の入った特撮の素晴らしさは今見ても最高!ただかわいいナリして三里塚の過激派みたいなゲリラ戦で活躍するクマちゃん軍団や、レイアとルークが兄妹だというドンデン返しとお涙頂戴の親子の和解なんかのチマチマしたホームドラマにはサッパリ乗れなかったもんである。SWシリーズとは最初の出会い方が良くなかったのかなあ…。
思えば1作目の公開当時、アンテナ君から「次の三部作で過去に戻ったあと最後の三部作は未来に行って完結するんやでー」と計9本のどてらい構想の存在を聞かされてはいたものの、スッカリいい大人になった頃にホントに新三部作が始まってビックリ。自分は旧シリーズには大した思い入れはない。フィギュアやプラモやムック本なんかの関連商品も一切買ったことナシ。が新シリーズのエピソード1と2は結構面白く見た。金のかかりまくったCGを多用した壮麗な画面を、映画館のかぶりつきの席で浴びる様に眺めるのはまっこと眼福のきわみ。自分のような貧乏性にとっては、同じ1800円出すなら原価のかかった豪勢なもん見れば消費としての納得度は極めて高い。で、初期の構想に在った最後の三部作は結局製作されないらしく「エピソード3 シスの復讐」がSWシリーズ最後の一本になるのだと言う。結局この長大なシリーズは「少年アナキンはいかにダースベイダーとなったか?」というナゾ説きがクライマックスとなってしまった。辻褄合わせに終始するストーリーはなんとも窮屈で悪役の誕生で終わるラストも爽快感まるでナシ。お面被ってない青年ダース・ベイダーや狡猾な寝業師パルパティーン卿は悪役としての魅力が乏しく、過去作の敵役ダース・モールやジャンゴ・フェット、ドゥークー伯爵に見劣りするのも問題。ただ銀河皇帝がなんであんなにシワシワなのかナゾが解けるシーンは面白かった。サミュ・Lのチャンバラは最高にカッコ良し!結局ヨーダより、オビ・ワンより、アナキンより、ドゥ-クー伯爵より、メイス・ウインドゥが一番強そうに見えたなあ。シリーズ最強のボスキャラ銀河皇帝より余裕で強いんだもん。この人が主人公の映画が見たいなあ。ルーカスさんこれで辞めるなんていわないで最後の三部作も作ってくださいよ!絶対見に行くし。ついでに大林監督も、選挙運動中にケンカになった静香ちゃんとホリエモンが神社の階段でもみ合って転落し、お互いの人格が入れ替わるがそれぞれの境遇を理解し合って和解するという新しい尾道三部作を作ってください。見に行かないけど。いや行くかな?
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一年の大半は金と肉欲と己の健康と他人の不幸にしかにしか興味がないテレビも取って付けたよに戦争を考えるこの季節。私の両親(現在は絶賛別居中)は一応戦中派。終戦時は父11歳母7歳だった。オヤジは戦時中は植民地の台湾にいたので「弁当のごはんの部分がバナナだった」「遠足に行ったら木からハブが落ちてきてビックリした」なんてドリフの探検隊張りの面白エピソード満載の呑気な日々だったようだが引き上げ後は大変苦労した様だ。オカンは使用人のいるような大金持ちの娘だったが何やかやで家業は没落。戦後は浜辺で万年筆爆弾(「おっ!いいもんめっけ」とキャップをひねった子供の手をふっとばす米軍の非人道的兵器)を拾っては町役場に届け昆布アメを貰ったり、これまた異次元のような少女時代を送っていた様だ。両親だけでなく学校の先生もマズイ給食を残すと「戦争になったら好きキライなんか言ってられへんぞ」なんて良く説教してた。両親や先生の戦争の話を聞くと「鬱陶しいなあ」と思う反面、なんだかんだいって少年時代の自分にとって戦争体験というのは想像するしかない人生の修羅場であり「この世代にはかなわねえなあ」と思うことも多々あった。そんな近親者の戦争エピソードでも極め付けに恐かったのが母の叔母のU子さん(オバQみたいで緊張感無いなあ)の体験。戦時中満州のハルピンにいたU子叔母さん一家は事業で羽振りを利かせ競馬の馬主をやったりの正に華麗なる一族。しかし戦局は悪化、不可侵条約を破ってソ連の侵攻が開始され家も車も愛馬も捨てて一家の必死の敗走が始まる。娘盛りのU子叔母さんは男装させられ(「女はロスケに犯されるから」叔母さん談)命からがら引き上げ船に乗り込んで一安心と思いきやそこからが真の地獄であった。敗戦を知った引き上げ者たちは船上で戦時中に軍部と結びついて横柄に振舞っていた人間の人民裁判を始めたのだ。閉鎖状態の船内は疑心暗鬼の地獄絵図。U子叔母さんは次は自分の一家が告発されのではと生きた心地がしなかったという。「いーち、にー、さーん、しー」と呼吸を合わせた4人に手足を掴まれて船の甲板に叩きつけられて失神したまま次々と海に投げ込まれる人の記憶が今もその時の掛け声と供に頭を離れないと言ってた。大学の時の先輩は大好きなオジイちゃんの箪笥から、殺した中国人の死体の前で戦友と撮った記念写真が出てきてしばらくオジイちゃんの目が直視できなくなったと言ってたっけ。戦場で残酷な事が出来る人も家に帰れば勿論良き家庭人で有ったはずである。こうやって自分がエラそうなこと言ってられるのも、否応無く手を汚す立場に追い込まれた人々の犠牲の上に成り立っている。平和漬けの現在の感覚で戦争中の暴力を単純に野蛮と批判することは絶対にやってはいけない失礼な事だ。現代の若者世代だって同時代に生きていたらきっと戦地で残酷な行為をしていたと思う。かく言う自分も戦争になれば信じられないような残酷な行為が出来るはずである。だからこそ戦争はいけないというのはダメですか?人間は際限なく残酷になれる。だから戦争はしてはいけない。人を殺す時は国家の命令でなく自分が本当に憎い人間を殺したいもんだと思います。なんだこの結論?
民間人が戦争の中に見たがる醜悪さは、腹からはみ出た臓物に集約される。人間の本然をありのままに見る事が、即、醜悪なのだ。死を笑いにまぎらすことが醜悪なのだ。戦争が醜悪なのは真実が醜悪だからであって、戦争そのものは実に真摯だ。
グスタス・ハスフフォード 「フルメタル・ジャケット」より
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近頃意外と多かった絶滅パニック・侵略SFモノの娯楽大作。マイケル・ベイ「アルマゲドン」にエメリッヒの「ID4」、シャマランの「サイン」どれも話題作ばかり。そんな一連の作品にトドメを刺す大本命が、あのスピルバーグの「宇宙戦争」。原作付きのリメイク作品の本作、ラジオドラマになった時はオーソン・ウエルズの真に迫った朗読のせいで、ホントに宇宙人が攻めてきたと勘違いした単細胞が大騒ぎしたことは「イングリッシュアドベンチャー」の広告のおかげで日本でも有名。今作の主演は「マイノリティ・リポート」に続いてトム・クルーズ、共演に天才子役ダコタ・ファニングという布陣で、女性層ファミリー層に対する目配せも抜かり無し。映画は冒頭から港湾労働者のトムクル一家の人間関係を手際良く交通整理し(この辺の描写は何気ないけど無駄なくてスバラシ)すぐにCMで使われてた侵略者とのファーストコンタクトのシーンに。教会を真っ二つに叩き割って地面から巨大兵器が現れるシーンからカブきまくり!圧倒的な破壊から逃げ惑う群集はナゾの光線で次々と灰になる。レイティングを鑑みてか、血しぶきこそ出ないものの侵略者の容赦無い残酷さを強調する。そっからはトムの思春期の息子とこましゃっくれた娘をつれた逃亡生活。大統領が出てくるよな退屈な「人間ドラマ」を一切排し、理不尽で巨大な侵略者の暴力に苛まれながらも家族を守ろうとするトムにのみ焦点を絞ったストーリーは簡潔。しかしテロ以降のアメリカや米軍が駐留するイラクを否応無く想起させる。肝心の特撮部分は、冒頭上げた絶滅パニックの近作とはアクション演出の切れ味や画像の力がケタ違い。墜落した飛行機の残骸や燃えながら暴走する列車、侵略者に襲われて転覆するフェリーボート、「何人エキストラおるねん!」と呆れるモブシーン等々スピルバーグの汲めども尽きぬイマジネーションの奔流に飲み込まれ2時間あっちゅう間。「ドイツもコイツも生ぬるいぜ。人類はこうやって滅ぼすんじゃ!」という気合の入った暴力の連打にお腹一杯。これに拮抗しうるのはわずかにバーホーベンの「スターシップトルーパーズ」くらいか。「ジョーズ」「ET」「ジュラシック・パーク」「プライベート・ライアン」とつねに映画業界その物の流れを変えるような爆弾を投下して来たスピルバーグ。「巨大画面で見る必然を」つねに自作に加味する「映画の権化」がいてこその現在のアメリカ映画界の隆盛がある。テレビにすっかり市場を食われた日本の映画業界人や誰も読んでない映画雑誌に文章書いてる評論家になんでスピルバーグを「お子様ランチ」と言う資格があるでしょう。映画と言う娯楽を生き残らせる為に作品を連発するスピルバーグは昔からずっと最高だ。ボロボロになったトムクルが家で小奇麗な服着て暮らしてる別れた嫁さん一家の元に子供を届けるシーンにスピルバーグの人間性は凝縮されている。これを「理想的過ぎる」「偽善的だ」と否定する人は最初っから見に行かないが宜しかろう。これこそがスピルバーグの作家性なのだから。
ところで本編上映前、ピーター・ジャクソン版「キングコング」の予告が流れたが、最高に面白そう。これだけでも下らん映画一本分をゆうに超える値打ちがありました。
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「打撃の神髄 榎本喜八伝」松井浩(講談社)・・・イチローよりはやく(24歳9ヶ月)1000本安打に到達した伝説のバッターの伝記。打撃だけでなく守備(一塁手)でも日本記録(年間一失策で守備率.9992)を持っていると言う。二宮清純さんの「最強のプロ野球論」(講談社現代新書)でチラッと触れてた榎本さんには前から興味があったのだが、昭和のパ・リーグということでついつい豪快エピソードを期待して読んでしまったものの、榎本さんのいた大毎(現在のロッテ)の選手は夜は飲みにも行かず旅館で素振りしながら打撃談義してたのだという。意外とマジメなミサイル打線。榎本さんが理想の打撃フォームを求めて取り入れたのが合気道の身体繰法。榎本さんを合気道の先生に紹介したのは大毎のチームメイトにして高校の先輩あの荒川博氏。後に巨人のコーチとして王貞治の一本足打法を編み出したあの人がここでも暗躍(失礼)してた。榎本も王も広岡も合気道の道場に顔を出したり、剣道の道場で日本刀で巻き藁を切ったりしてたらしい。「合気打法」を開眼し2314本のヒットを残した榎本さんは、しかしその後コーチや監督に就任する事も無く、名球界の会合にも1回も顔を出したことも無いという。オールスター戦のベンチで座禅を組んで瞑想したりする奇矯な行動と、スポーツと言うより武道的な独自過ぎる打撃理論からどうも「アッチ側に行ってしまった」と誤解されてしまった節が在ったようだ。現在の榎本さんは駐車場や賃貸住宅を経営して悠々自適の隠居暮らしで、当然「アッチ側」には行っておりません。野球本としてはかなり異色の本です。
「遠いリング」後藤正治(岩波現代新書)・・・これは古本屋で購入。最近では亀田興毅の移籍騒動で注目されたグリーン津田ジムに集うボクサー達の群像を描いたノンフィクション。エディさんと井岡弘樹のエピソードは涙ナシには読めません。
「元アイドル」吉田豪(ワニマガジン)・・・また買ってしまった吉田豪のインタビュー集。元女性アイドルばかり22人にインタビュー。杉田かおるさんが自分の親子関係を「スター・ウオーズ」のルークとダースベイダーに例える部分が最高!みんなお金で苦労したのねえ。
「失踪日記」吾妻ひでお(イーストプレス)・・・「がきデカ」「ドカベン」「マカロニほうれん荘」で絶好調だった少年チャンピオンで「ふたりと5人」描いてた吾妻さんの締め切りを破っての失踪から、ホームレス生活、なぜか路上でスカウトされてガスの配管工になり、アル中になって入院、その後の入院生活までをかわいいタッチで軽快に描いた実録マンガ。「消えたマンガ家」って本がありましたが、これは「消えてもう一回出てきたマンガ家」というべきか。ギャグ作家は大変な商売だが、なんでもネタに出来る強靭なマンガ家魂に感服。プロは凄いなあ。
「刑務所の前 第2集」花輪和一(小学館)・・・映画化までされた「刑務所の中」から逮捕前に遡って、逮捕原因になった拳銃の修復作業や拘置所暮らしと言った実録部分と、戦国時代の鉄砲職人の子供(父子家庭)のドラマが交錯すると言う摩訶不思議なマンガ。逮捕・ムショ暮らしが原因でブレイクと言うシンデレラストーリーからこっち絶好調な花輪さん。私実は15年前くらいに一度花輪さんにお会いしたことあるのですがその時は拳銃ぶっ放して逮捕されるような物騒な人にはとても見えなかったが(当たり前)、吾妻さんもそうだがなんでもネタに出来る人は強い。植草教授は手鏡をネタには出来まい。かっこつけて生きててもロクなことは無いのである。
「黒い看護婦 福岡四人組保険金連続殺人」森功(新潮社)・・・九州で看護学校の同窓生の女四人がグループを組んで保険金殺人をしてた事件のドキュメント。主犯格のオバハンが手下のオバハン三人をウソと脅迫を梃子にした恐怖政治で支配して行く過程がこの世の物とは思えない不思議さ。主犯のオバハンがレズビアンであったということが注目を集めた事件でもありますがその部分の描写は相当キツイです。エピローグの拘置所でのエピソードが圧巻です。
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新人監督が映画企画を売り込むなら、やっぱりストーリーに奇想が在った方が良い。紙切れに書いた粗筋だけで「おっ面白そうやんけ」と思わせるものがあれば資金も集まりやすかろうし、映画祭でもおのずと注目が集まろうってモンだ。「オープンウォーター」はその点で掴みはバッチリな映画。休暇でダイビングに行った若夫婦が手違いで外洋に取り残されて海の下にはサメがウヨウヨと…と言う粗筋を雑誌で読んで自分は「オッ」と来ました。実話に基づいた映画と謳ってる映画は数在れどこの映画はイイ意味で胡散臭い感じ。前半デジカメ撮りのドキュメンタリータッチの映像が「ブレアウイッチ・プロジェクト」を連想させて不安になるも肝心の遭難シーンは中々の迫力。ひろーい海が密室になるという着想も生きてるし、励ましあったり罵り合ったりしてるうちに男がパニックになっていく部分も説得力充分。キャストの下半身に鎖カタビラ巻いてエサを蒔いて集めたというサメの映像も迫力満点。「ピラニア」みたいな後味の悪いオチも悪趣味な都市伝説を思わせて良かった。大分遅れてきたジョーズの亜流映画といいますか。こんな映画がオシャレミニシアターでかかってると言うのも時代ですねえ。この監督も「グリズリー」とか「アリゲーター」なんかをオヤジと見たクチかな。自分が映画取る段になってそういう地金がひょっこり現れたのか。それとも「そんな下らんC級映画と一緒にしないでくれよ!」って怒るかなあ?
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役者・監督として働き盛りを絶好調で突っ走るショーン・ペンの新作は、「リチャードニクソン暗殺を企てた男」という長―いタイトルの映画。ジャックした航空機でホワイトハウスに突っ込もうとした、実在の人物のお話。この傍迷惑なオッサン、サム・ビッグ役がショーン・ペン。この人元々は親から継いだタイヤ屋を兄貴と共同経営してたんだが、兄貴とモメて辞めてしまい事務機のセールスマンになる。全く畑違いの仕事に緊張するオッサンに、海千山千の事務機屋の社長は自己啓発本や自己催眠テープをゴッソリと渡し「どんな手を使っても売上げを上げるんじゃ!」とハッパをかけるも、なんせ内向的でおとなしい性格でセールスマンには全く向いてない。馴れぬ仕事を頑張って始めてもらった薄っぺらな給料袋を持って向かった先は、別居中の美人のカミさん(ナオミ・ワッツ)と三人の子供が暮らす家。ボロ屋の修理代にと給料丸ごと差し出すがカミさんはつれない。「異常に制服のエロいレストラン」でウェイトレスして家計を支えてるカミさんは完全に愛情が冷めているがオッサンの方は未練たらたら。カミさんの店でコーヒー一杯で粘っては気を引こうと空しい努力を重ねる日々で、タダでさえ適正の無い仕事も手につかず。こんな一人ぼっちのオッサンのただ一人の友人(タイヤ屋時代の顧客の修理屋の黒人オヤジ)役がドン・チードル。この人の出てる映画にハズレ無し!仕事も家庭も滅茶苦茶でノイローゼ気味のオッサンに呆れつつも決して見捨てない男気野郎を好演。しかし一度狂い始めた人生の歯車は決して戻らない。仕事はドン底で社長親子に虫ケラ同然に扱われ、カミさんにも新しい男の影がチラつき深まるブルース。自分の人生はなんでこんなに八方塞がりなのか出口の無い自問自答の日々を打開すべく新しいタイヤ商売のアイデアで一発逆転を計ろうとするが…。劇中ビッグ氏の一人称はずっと大ファンだったエルマー・バーンスタイン氏への手紙と言う形をとって語られる。理想の無い世の中を嘆き、氏の音楽のような純粋な魂の必要性を熱っぽく語るビッグ氏。彼の行動は高邁な理想ゆえだったのか、現実を生き抜く能力が無いが為に観念に逃げ込んだ結果だったのか。チョット見「タクシードライバー」を思い出すよなお話だがこのビッグ氏は何事にも自信が無く他人に受け入れられようと四苦八苦してる男でトラビス・ビッグルのような他人の目を気にせず力ずくで己の信念を通す男とは対極のキャラクター。むしろオウムが騒がれてた頃、左遷されてヤケ起こしてハイジャックしたエリート銀行マンのオッサンを思い出しました。ただ自分のブルースの原因を国家規模にまでスケールアップしたのがこの人の特殊性。別れたカミさんや上司を刺したんじゃあ映画にゃならんわなあ。カケラも爽快なとこの無い映画ではありましたが、稼ぎの少ないオッサンの私憤がエスカレートして行くとこは他人事とはとても思えませんでしたよ。
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企画枯れなのか、やたらと外国映画や過去の名作のリメイクとマンガ原作ものばかりが目に付くアメリカ映画界。近頃のコミック原作映画ブームの草分け的存在「バットマン」も、手垢のついた感のある旧シリーズをリセットして、キャストもビジュアルイメージも一新した新シリーズが始まった。「バットマン ビギンズ」ってタイトルからして気合が入ってるじゃないの。旧「バットマン」シリーズの成功は、一・二作目を監督したティム・バートンの才気溢れる奇怪なビジュアルイメージや倒錯したキャラクターの魅力によるところが大だった訳ですが、この新シリーズのスタッフ・キャストも「是が非でもヒットさしちゃるけん」という製作者の気合がビンビン伝わって来る布陣。旧シリーズではマイケル・キートンがやってたブルース・ウェイン役には「マシニスト」でガリガリになったボディをムキムキに鍛えなおした役者馬鹿クリスチャン・ベール。脇を固めるのは悪役にリーアム・ニーソン、ウェイン家の執事にマイケル・ケイン、秘密兵器の開発係にモーガン・フリーマン、正義の警官役にゲイリー・オールドマン、ヒロインにワイドショーを盛り上げるケイティ・ホームズ(敬虔なカソリックで処女らしい。トムは耐えているのか?)、ルトーガー・ハウアーまで出てると言う無闇に豪華なキャスティングはどうよ。その上監督はクリストファー・ノーランを持ってくるというトンガリ振り。「メメント」は時間軸を行き来するストーリーや主人公の造形は奇想天外だったものの映像表現の方は2時間ドラマの様に極めてオーソドックスだったもんで、「娯楽アクション映画は合って無いんじゃないの?」と思ったがこれは完全な杞憂。どころかアクションシーンはカット割の異常に細かい今風の映像が手堅過ぎて拍子抜け。器用なのねえ。ドラマ部分はキャラクター陣がさすが名優ぞろいで皆さんキッチリと味を出していて、大石内蔵助張りにボンクラのフリをしながらの二重生活を送るブルース・ウエインも面白いし、マイケル・ケインの執事は言わずもがなのはまりっぷりで、モーガンフリーマンも窓際族の科学者を楽しげに演じております。悪役はちょっと面白味に欠けたかなあ。まあこれはシリアスな世界観(今作のバットマンは荒廃した大都会の治安を守る必殺仕置人なのだ)を目指した結果だからしょうが無いか。この辺はフリークス同士の奇妙な戦いだった旧シリーズとは大分違うところ。個人的には万力に鉄板はさんで手裏剣を削り出してたシーンみたいなアホなところがもっとあっても良かったような。
ところでクライマックスのシーンは否応無く福知山線の大事故を連想させられました。大阪に住んでる者としてはなんとも複雑な気分。当然今作の製作者には何の罪もありませんがJRには大罪がある。正義がない悪徳の街はゴッサムシティばかりでは無いようでございます。大阪市役所、JRやイカリソース、食中毒の雪印、食肉のハンナン、池田小事件や、近鉄の球団合併までここんとこ大阪はロクな話題がないなあ。
最後に渡辺謙さんの出演について。この役は結構ヒドイ扱いだと思います。日本市場向けの話題作りに駆り出されたとしか思えません!
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と言えば銀蝿一家のジョニーという日本人の常識を覆す、クリント・イーストウッドの話題の新作「ミリオンダラーベイビー」。西部劇、ジャズ、犯罪小説、と常にアメリカ文化を自身の表現のテーマにしてきた彼の新作の題材は女子プロボクシング。一人ぼっちの男と女が都会で出会って、淋しい同士で恋愛するなら良くある話。この映画ではボクシングをするのだ。イーストウッド演じるフランキーは自分でボクシングジムも経営するトレーナー。指導力はあるが商売ベタで、苦労して育てた有望選手をよそのジムに引き抜かれたりの冴えない毎日を送っている。もう一人の主人公はコブシひとつで成り上がろうとボクシングを志すど根性女。演じるのは、「ボーイズ・ドント・クライ」に続いてトレーラー暮らしの貧乏人専門女優(但し毎回オスカー受賞)と仮した感のあるヒラリー・スワンク。「30代」「未婚」「子ナシ」を面白がって負けイヌなんて言う風潮が昨今の日本に在りますが、スワンク演じるマギーは前掲3要素プラス「父親は早死」「母親はスーパーサイズ」「実家はトレーラーで生活保護世帯」「仕事はウエイトレス(飯は職場で出る残飯)」「弟は刑務所」「妹は子育て中のシングルマザー」という負けイヌどころかドブネズミのようなハングリーな女。だが己の全てをかけられるボクシングに遅まきながら出会い本気で世界チャンピオンを目指そうという輪島功一のような一本気なヤツ。ジムの押しかけ弟子となり最初は煙たがられるが、やがて持ち前の熱意で周囲の人間を巻き込んでいく。フランキーの指導と天性の身体能力でKOの山を築いて人気ボクサーとなるマギー。念願の世界タイトルマッチで100万ドルの二等分という好条件の試合契約を結んでついに「ミリオンダラー・ベイビー」になった彼女。しかし成功の端緒となるはずの試合で二人の人生は暗転してしまうのである。
イーストウッドの監督主演作は「許されざる者」以来全部老人映画ばっかりだが今作のヨボヨボ度はひときわ高く(まあ年々トシとるんだから当たり前だが)、ノドボトケはシワシワ、手の甲は血管浮きまくり。このアンチエイジングのカケラもないおのれの晒しっぷりに「オレはジジイだ文句あるか!」という肝の座りっぷりが見えてカッコイイぞ。カウンターカルチャー全盛の60年代には「ダーティー・ハリー」で暴力刑事に扮して世間を挑発し、21世紀の保守化する時代にはアメリカンドリームやキリスト教の欺瞞を暴くような本作で話題を呼ぶ我が道の行きっぷりも相変わらず。実際にはアメリカ社会の成功者である彼がこんな陰気な映画でアメリカンドリームの悲惨を描く資格があるのか?という批判もわからんではないが、彼はただいつの時代にも、必要に迫られて覚悟を持って手を汚す大人の姿を描いているだけなのでは。
劇中フランキーが「儲けた金は無駄使いするなよ。家を買うんだ」とか「タイトルマッチは色んな相手と戦って力をつけてからやるんだ」なんてする説教がイイ味なんだなあ。若手俳優に「人気は一時のもんだからもらったギャラは無駄使いするなよ。監督やったり製作やったりして色んな経験を積んどいた方がいいぞ。」なんて説教してるのかな。
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「ザ・ロイヤル・テネンバウムス」見たスコッセシが自身の後継者に指名したとの噂もあり、アメリカ映画界の次代を担うと言われるウェス・アンダーソン。彼の新作はクストーのような海洋ドキュメンタリー映像作家の奇妙な冒険を描いた映画「ライフ・アクアテイック」。近頃は動物番組もクイズ形式やタレントとの抱き合わせばっかりで、「野生の王国」やクストーの海洋ドキュメンタリーなんかのネイチャープログラムは良く考えりゃ今やなつかしのジャンルですね。
前作はほとんどロケだったにも関らずセット撮影の様な箱庭的ビジュアルだったが、今作はフェリーニ好きの憧れの地にしてギリアムの「バロン」を呪われた映画にしたイタリア・チネチッタでセット組んで撮影されたそうな。彼らの冒険の舞台になる船(撮ったフィルムをすぐ編集・アフレコできるスタジオ、サウナ付きの大浴場やワインセラーあり)を断面図の様に真っ二つに割った実寸大の巨大セット(船の下ではカメラをつけたシロイルカまで泳いでる)などにそこはかとないイタリアテイストが。前作や前々作「天才マックスの世界」と変わらぬ、北朝鮮の街並みのようなシンメトリーな構図、原色を多用した絵本のような色彩、キャラクターに寄りそうファッションに加えて、今作は壮麗なセットやかゆいところに手が届く特殊効果も得て、作品世界も格段にスケールアップ。が、オシャレなビジュアルとは裏腹に映画の内容は結構残酷でナンセンス。自分の映画の為なら、ウソ、ドロボウ、殺人もいとわぬビル・マーレー演ずる主人公ズウィスーは、前作のジーン・ハックマンが演じたロイヤルや、前々作のジェイソン・シュワルツマンが演じたマックスと同じじゃないの。自分勝手な主人公に振り回される人々の群像劇という一貫した世界。ライバルの金満冒険家のジェフ・ゴールドブラムや、ずっとボサノバアレンジしたデビッド・ボウイの曲を弾き語りしてる黒人(「シティ・オブ・ゴッド」で怒ると強くなるバスの車掌やってた人)なんかの面白いけど意味が無い登場人物も相変わらず。勿論才気はビンビンに感じるし面白いんだけど安定し過ぎてるとも感じるのは贅沢な注文でしょうか。「良く出来過ぎてる」とはイチャモンのような感想ですがなんかそう感じてしまいました
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金曜で終わる「ブレイド3」を駆込みで観賞。京都で仕事した帰りの阪急電車でビールなど飲んでしまい大分眠かったが、「ブレイド3」なら寝ない自信多いにアリ!このシリーズは映画館に皆勤賞。特にパートワンは自分にとっては100点満点の映画であった。マイク・フィッギスのオシャレ映画で“しっとりした素肌のナスターシャ・キンスキー”の乳揉んでた色男が、日本刀で吸血鬼を斬りまくる(なんちゅうストーリかねしかし)ポンチ映画の主演を嬉々として演じてる姿の眩しかったこと!ホラー、チャンバラ、カンフーというテイストは食いモンで言えばカレーとハンバーグとスパゲッテイが1枚の皿にテンコ盛りなったワーキングクラスオリエンテッドなB級グルメ。見た目は悪いがボリューム満点で味はイイという映画界の「タクシー運転手が集まる店」が「ブレイド」シリーズですよ!毎回監督は替われどダークトーンに統一されたスタイリッシュなルックとダンスの様に振り付けられた流麗なアクション、斬られると備長炭の様に燃え尽きて行くバンパイアの爽快な死にっぷりというシリーズの魅力は不変。「ロボコップ」や「バットマン」の様に回を追う毎に腐って行くシリーズもんが多い中、このシリーズの安定感は脅威的。今作の悪役キャラは大ボスがちと魅力薄ではあるが、マッチョな悪役をWWEスーパースターのトリプルHが楽しげにやってて大変良かったです。ところで前作を見た後、某映画感想掲示板に「次作ではクリス・クリストファーソンをコンボイに乗せろ!」と無理難題書いたら、なんと今作の冒頭でホントに彼、コンボイに乗って登場!こんなところでラバーダック復活という嬉しい誤算!俺の提案受け入れてくれてありがとうウエズ!(やや妄想気味)
しかしドサクサにまぎれてペキンパーにオマージュを捧げるあたりやはり侮れないこの「ブレイド」シリーズ。今作で辞めるなんていわないで“黒い「男はつらいよ」”としてウエズに一生続けて頂きたいなあ。
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博多に出張に行ってる間に大阪での公開が終わって見逃してた「エターナルサンシャイン」が、次に行った宮崎でたまたま公開中で見る事に。仕事が終わった後、繁華街の映画館を目指す。が、地図で調べてたどり着いた映画ビルは、正面にバリケードしててどう見ても営業していない風情。どうも映画館の場所を勘違いしてたようだ。携帯で地図を検索して、正しい場所を探し歩くと非常に目立つカラオケボックスの入ったビルの端っこに、ひっそり咲いた劇場の入り口を発見。全国色んな映画館に行きましたが、多分日本でも有数のわかりにくさ!一回前素通りしてしもたがな。壮絶にオンボロな展望エレベーターで劇場の階に上がる。キップ買って中に入ると客はオレ一人・・・。地方都市の平日の最終回なんてこんなモノと言えばこんなモノか。自分が学生の時京都に在った『菊映』という映画館で先輩がバイトしてたが、ここは客がいないことで有名で、最終回の上映で客がゼロだとちょくちょく早仕舞いしていた。『菊映』は結局無くなったが、昔からある小屋はどっこも経営大変なんだろうなあ。そもそも自分の出張というのは新規開店する某大手ショッピングモールの遊技施設作りなのだがそのモールには10スクリーンあるシネコンが入ってるのだ。たぶん潰れてた映画ビルはシネコンの進出を見越して撤退したんだろうなあ。で営業中のこの小屋、見た目はボロいが椅子はドリンクホルダーつきのでっかい新しいやつだし、音響もサラウンドスピーカー完備で申し分なしどころかその辺のシネコンよりいいくらい。はじまる直前に二人客が入ってきて観客三人で上映開始。監督のミシェル・ゴンドーリは、劇映画の人というよりはビデオクリップの作者として有名な人。彼の作ったビデオは、超絶的に凝った作り込んだ映像作品なんだが、いわゆるハイテク頼みのキメキメ且つゴージャスな映像でなく、結構アナログなギミックを多用してるので手作り感があって愉しいのだ。怒ると手がデカくなるオッサンが出てくるフーファイターズの「死霊のはらわた」風クリップのナンセンスなアホらしさ、電車の窓から見える景色ワンカットで構成されたケミカルブラザーズのクリップのシブさ、レゴブロックで作った立体アニメが歌うホワイト・ストライプスのクリップのカッコ良さ等々、技術自慢にならぬアイデア重視の御茶目な作品世界が彼の人間味を感じさせる。この映画も学生映画のような初々しい題材。自分とケンカした彼女が、衝動的に自分との想い出を『記憶消し業者』で消去してしまったと知ったサラリーマンが、自分も同じ業者の手で記憶を消そうとするが…、という結構女々しい題材。記憶はパソコンをつないだヘッドギアで麻酔が効いてる間に消されるんだが、その過程での彼女との出会いから別れまでの記憶(単なる美しい思いでばかりでなく、思わず欲情してしまった瞬間とか、彼女に浴びせられたキツイ言葉とか)を遍歴する愉しくツライ主人公の意識の旅がこの映画の見せ場になる。脳の中で消えていく記憶の映像化という題材はゴンドーリ氏にはピッタリだが、ただのヘンテコ映画にはならずデート映画としても手堅い作りになってる。キルステン・ダンストが下着姿ではしゃぎまわるという「スパイダーマン」では決して見れないであろうエロシーンがあったり、エンドロールでベックの歌が流れたり、とにかくサービス精神が旺盛で気さくな作りなのだ。無闇に豪華なキャスティングはあんまり日本での集客には貢献してないみたいだけど、それもまあこの映画での成功に賭けるゴンドーリ氏の本気の現れか。自分としてはちょっと変わったエンターテイメント映画だと思いますがセンスをひけらかすようなイヤミなとこがなくて好感持てました。映画終わって劇場を出たら受付にも売店にも人っ子一人いなくて恐かったよ。不思議な映画館だったなあ。でも良い小屋だと思うので宮崎の人はつぶさないように通ってあげて欲しいなあ。
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出張に行った博多で仕事が終わった後「インファナル・アフェア3」を観賞。ホテルから歩いてキャナルシティのシネコンへ。ここの映画館はシネコン特有の口うるさい感じ(ガラガラの時も指定席だったり上映前に並ばされたりは窮屈でキライ)が無くて好きなのである。博多は食いもんも安くて巧いし、客商売の人もおもねるでなく気取ってるでなくいつ来てもいいところ。 盛り上がる韓国映画界に対してとかく沈滞してると言われがちな最近の香港映画界。そんな香港映画界でわずかに気を吐くのチャウ・シンチーとこの「インファナル・アフェア」シリーズ。シリーズ第一作はマフィアにもぐりこんだ警察のイヌと警察にもぐりこんだマフィアのスパイが知略を尽くして暗闘を繰り広げると言う下手するとまったくの絵空事になってしまいそうなお話が、緻密でリアルな人物描写と美男子から中年までイイ顔ばかり揃えた香港役者達の丁丁発止のやり取り、善悪の彼岸を超えたストーリーのやるせなさで「やっぱり香港映画は凄いで!」と見るものを唸らせる傑作になっていた。ウォン・カーワイやフルーツ・チャンの軟弱オシャレ路線ばかりが公開される日本の香港映画事情に違和感を感じていた野郎ファンと、アジアの男前に目がナイ女性ファン両方が食いついてスマッシュヒットを放ったのは必然であった。ヒット作が出たら柳の下のドジョウを狙うのが香港映画の常道。続編は主要キャストが軒並み死んでしまったと言う事情からかなんと前作の過去に戻ると言う掟破りで、スケジュールの都合か主演の男前二人が出ないという飛車角落ちの状態であったがアンソニー・ウオンとエリック・ツアン(左とん平似)というオッサン二人が光りまくるというリストラ世代に勇気を与える傑作中年活劇となっておりこれはこれでイイ映画であった。そしていよいよパート3で主要キャストも勢ぞろいしシリーズが完結すると言う本作がつまらなかろう筈が無いのであるが…。柳の下に3匹目のドジョウはいなかったということか。いろいろダメな点はあるのであるがまず語り口が異常に複雑で3から見た人はストーリーが理解出来無いこと必至!なんでこんなに時系列を行き来する必要があるのやらサッパリわからず。異常な包容力をもった男の惚れる男として魅力的な悪役だったマフィアボスのエリック・ツアンも単なる理不尽な悪モンになり、トニー・レオンは椅子に座って北京原人なケリー・チャン(精神分析医。この役この映画に必要かな?)と眠たくなるよな淡い恋を演じるばかり。実質主人公のアンディ・ラウも悪行の報いを受けてか権力の罠にスッポリとはまって「正しい事をしたかったんやー」と泣き言を言いながら絶命という善悪の彼岸どころかかなり「警察バンザイ・正義は勝つ」なオチにこっちは口アングリ。「マトリックス・レボリューションズ」に匹敵する脱力完結編でした。いや香港モノだから「死亡の塔」に近いかな。映画終わって外に出たら台風並の強風で椰子の木がゆれててなんだか東南アジアみたいでした。映画はつまらんかったけどやっぱり博多はいいなあ。
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見たかったのだが中々予定が合わず見に行けなかった「アビエイター」。だって長いんですもの、尺が(と宇野鴻一郎風に)。ウマが合ったのかなんなのかまたも手を組んだデカプリオとスコセッシだが、このコンビの一作目「ギャングオブニューヨーク」はデカプーどころか映画自体がD・D・ルイスの超絶的な存在感に食われっぱなしだったような記憶が。スコッセシの最近作では(っても大分前だが)「救命士」が良かったといっては身の回りの映画好きから白眼視(というより見てる人自体があまりいなくて「なんじゃそれ」的リアクション多し)されてる私ですが、しかし役者デカプリオには「キャッチミーイフユーキャン」での飛行機好きの詐欺師が非常に良かったので期待するところあり。ハッキリ言ってハワード・ヒューズにはちっとも似てないが調子に乗って生きてる者同士きっと人として響き会うものを感じての主演映画化(デカプリオの持ちこみ企画らしい)なのでしょう。親から受け継いだ莫大な財産を大好きな飛行機に注ぎ込んだヒューズ氏の人生は氏のエキセントリックな性格ともあいまって批判的に語られる事が多い。かつて「知ってるつもり」でヒューズとカーネギーの人生を比較する回があったが「カーネギーは儲けた金で図書館や大学や音楽堂を作ったイイ人。ヒューズは親の財産を道楽で食いつぶした人間不信の狂人」と言った内容で、はっきりとダメ人間として描かれていた。だがお金持ちのエキセントリックな行状を見るのは今も昔も大衆のお楽しみ。関口会長やホリエモン、西武の堤さんまで嫉妬と羨望の入り混じった視線に晒されて貧乏人の肴になるのが、今も昔もお金持ちの宿命なのだ。当代イチのスター俳優の肉体を得て語られる男の人生とは。映画前半は「地獄の天使」の制作を巡る無駄使いエピソードの数珠繋ぎ、後半は航空業界進出を巡っての新型機開発での無駄使いエピソードの絨毯爆撃、国会議員やパンナム航空との対決を軸に展開される。デカプー演じるヒューズ氏はというと自分で稼いだわけでもない相続財産を自分本位に使いまくり、女と見れば片っ端から手を出しまくり、そのくせ病的な潔癖症で障害者に露骨に差別的視線を向けるといった小学生にどす黒いチンコがついたような人物。機械いじりや工業デザインについては天賦の才能があり自ら設計した飛行機を操縦して世界一周最速飛行を達成したりする無闇に行動的な一面も(「底抜け超大作」に載ってたカメラ映りの良いブラジャーを設計するシーンも登場)あるが基本的には偏屈なオタクである(でも金持ちなのでモテる)。ハリウッド大作の主人公になるような愛すべき人物とは対極の人。唯我独尊の人なので後半生で愛に目覚めたりすることも無い。映画は「お金持ちはお金持ちで大変なのねー」なんて貧乏人の尺度で測られるようなスケールを超えた、ただただ自分の欲望に忠実に行動した男の一代記になっている。「人間は自分の事業をしか愛さないのである」と看破したのはニーチェでありますが、そう言う目で見りゃヒューズ氏は性格破綻者どころか極めて人間的な人。孤独であっても自分の仕事を持ってる人間は幸福なのである。人生や仕事に行き詰まると「盗んだバイク」ならぬ自家用飛行機で空へと飛び出すヒューズ氏の女々しいような豪快なような行き様は、見る人を置いてけぼりにするところ大ではあるが飛びたい時に空を飛べるのがお金持ちの特権なんでしょうね。自転車しか持ってない自分は羨ましい。「地獄の天使」の撮影での空中戦や超巨大輸送機ハーキュリーズの離陸シーンなど飛行シーンはどれもこれも凄い迫力ですが、一番凄かったのはヒューズ氏が最速記録に挑戦中に住宅地に墜落するシーン。物凄い粘っこい描写で事故シーンを再現してるんだが、壮絶なショックシーンの往復ビンタで長尺故にオシッコを我慢してる人が多かったろうから何人かチビってる事確実のド迫力!このシーンの魂の入った描写にスコッセシ健在なりの思いを強くしました!つぎは「インファナルアフェア」のハリウッド版を撮るらしいが(カソリックが無間道?)ロバート・ホワイティングの「東京アンダーワールド」を映画化するって話はどうなったんだろ。日本が誇るアビエイター横山やすしさんの人生も誰か映画化しないかなあ。
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このあいだ退職して年金生活者になったばかりのオヤジがひょっこりウチに訪ねてきて一緒に昼飯など食ったのだが、なにせ昭和一桁生まれの仕事人間のこと。仕事に行かなくて良くなった瞬間老け込んでガックリくるのではなんて心配して(ボケられても困るというスケベ心もあり)「なんかやった方がいいで」と適当なアドバイスすると、「おお!公認会計士か気象予報士の試験でも受けたろと思っとんのや。」と言うじゃないの。ほんとこの世代のオッサンは勉強好きだ。心配して損した。もしまかり間違って合格でもしたら、そうでなくても不景気な御時世に若者の就業の機会を奪う事になり結構迷惑な気もするのだがまあいいか。
退職後の仕事人間の悲哀を描いた傑作「アバウト・シュミット」のアレクサンダー・ペイン監督の新作「サイドウェイ」は仕事人間とは対極のモラトリアム中年のお話。この映画の主人公は「アメリカンスプレンダー」でも文科系チビハゲ中年やってたポール・ジアマッテイ演じるオッサン。高校の国語教師をしながらコツコツと書いた前衛小説を脱稿したばかりで、原稿をゆだねた出版社からの知らせを待つ身だが挫折続きでスッカリ性格がひねくれ出版を断られた時に傷付かない様にする心の準備に余念がない。離婚して二年も経つのに別れたカミさんに未練たらたらというポジティブのポの字もない性格の上、生活力もないのにワインマニアで朝は気取ってクロワッサン食ってるような人。かつては売れっ子だったが今は落ち目でCM専門の俳優やってる親友が金持ちの娘と結婚する事になり独身最後の1週間男二人で小旅行に出ることになる。この俳優くんは理屈っぽいオッサンとは対極の社交的で快楽主義のナンパ師。ワインや文学にはとんと疎いがナゼか男の友情で固く結ばれている。実家でオカンのヘソクリをくすねると言う最低の金策で遊びガネをゲットして、オッサンはワイナリー巡りとゴルフ、俳優くんはナンパと遊ぶ気満々のダメ中年二匹。本来オクテなオッサンも旅先で再会した昔馴染みのウエイトレスと恋の炎がチロチロ燃え始めるが、俳優くんから別れたカミさんが再婚すると聞かされてスッカリ悪酔いアンド意気消沈。一方の俳優くんは現地でナンパしたオネエちゃんとの火遊びが炎上。狭い町ゆえ女同士は顔見知りで4人で高校生の様なグループ交際が始まるが食事中に悪酔いしたオッサンはついつい別れたカミさんに電話するという最低行動で自己嫌悪も青天井。しかしウェイトレスの彼女が離婚後ワイナリーに就職しようと仕事しながら大学で園芸の勉強をしていると聞いてダメ男の心境にも徐々に変化が訪れるが・・・・。オシャレなチョイ悪オヤジにもなれず、かといってブコウスキー的無頼オヤジにもなれぬ主人公のリアルなキャラクター造形がバツグンだ。とかく若いことが素晴らしいとされる世の中、確かに中年は禿げてるかもしれない。加齢臭がしてるかもしれない。尿漏れしてるかもしれない。ムッツリスケベかも知れない。がワインみたいに年とって味が出るってこともあるんじゃないの?というお話。
中年過ぎて人生をやり直そうとする男女にぽっかりと訪れたモラトリアム期間。酸いも甘いも噛み分けて自分のやって来た事、知っていることがカルマとなってつきまとい、もう学生時代のように単純に発情出来ない男と女。生活の心配や自分の人生の目標もある。のべつ発情してる中年の話じゃなくてちゃんとリアルに無様でクヨクヨしてるのだ。あとラストシーンが凄く良い。「アバウトシュミット」と同じく余韻のある素晴らしいエンディングです。名人芸見せてもらいました。
ところで劇中思いっきりチンポが写るシーンがあってビックリ。宣伝見てワインがテーマのオシャレ映画だと思って見に行ったら腰抜けるぞ!
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JPホーガン『科学を捨て神秘へと向かう理性』(徳間書店)・・…凄いタイトル。原題は rational mysticism なので「理性的神秘主義」ぐらいの意味。訳解らん書名で却って読者を遠避けてる気がするが。『科学の終焉』であらゆるジャンルの科学者にインタビューしまくったホーガンが今度はいわゆる「神秘主義」の研究家にインタビューしてまとめた新作。理系の入門書というのは「専門家以外の人にもわかるように噛み砕いて説明しよう」という配慮からか文章が面白くない本が多いが、この人のは文系の魂と理系的合理主義を折衷した語り口が絶妙。思いこみが激しいような回りくどいような読ませる文章で、内容も勿論面白いです。
森達也「世界が完全に思考停止する前に」(角川書店)森達也、姜尚中「戦争の世紀を超えて」(講談社)・…・森達也も直截なような回りくどいような思考過程をそのまま見せるような文体が面白いです。「世界を~」の方は色んな雑誌に掲載されてきた短文集。NHKと朝日の論争の契機になった従軍慰安婦問題についての民衆法廷を扱った番組についての記述もあり。その論旨はものすごーくまとも。WWE好きってとこも良かった。タカ派の草野仁と思想信条をを超えてWWEを称える対談して欲しいなあ。姜尚中との対談本の「戦争の~」はアウシュビッツや板門店や市ヶ谷記念館を巡ってナチズム、朝鮮戦争、アメリカ、東京裁判を語りまくる。「被害者に感情移入するのではなく加害者の視点を探ることこそ大事」という結論が。後書きで姜尚中が「カムイ外伝」について言及してるのでビックリ。でも親近感湧いた。
吉田豪「人間コク宝」(コアマガジン)・・…インタビュー集。真木蔵人とローリー(寺西)のインタビュ-が最高!
JGバラード「コンクリートの島」(太田出版)・・…交通事故で車ごと無人の人工島という都会の死角に閉じ込められた男の話。現代なら携帯電話があるので孤立する設定つくるのは大変そうだなあ。文明というのは危うい均衡の上に成り立っていて一皮むけば…というお話。タバコやポルノやゲーム、ギャンブルの害毒は良く言われるがこ毎年膨大な死亡事故を出してる自動車を売ってる自動車メーカーはなんで批判されないのでしょうか?
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いつ何時でもギラギラするやたら多作な映画野郎オリバー・ストーンの新作「アレキサンダー」は、なんと今時歴史大作。「グラディエイター」「トロイ」といわゆる「サンダルもん」の復活機運に乗って、どう撮っても超大作になるこの企画にもGOが出たのだろう。はっきり言って今の世間にアレキサンダー大王の生涯に対する関心がそれほど高いとは思えないが。紀元前四世紀日本で言えば縄文と弥生の境目にギリシャから中東世界を経てインドまで陸路で侵攻したというんだからまあ無茶なお人ではある。チンギス・ハーンもすごいがアッチは中世だからね。歴史大作といえば「ベンハ‐」や「クレオパトラ」の洋画から「天と地と」とや「敦煌」なんかの邦画まで、コスプレした大群衆のモブシーンのみが売りの空虚な作品と批判される事が多いが、そもそもその手の作品に良心的なミニシアター作品のような精緻な描写を求めるのはお門違い!焼肉屋で「精進料理を出せ」と言っても詮無いこと。歴史大作は史上の偉人と自己同一化した監督やキャストの夜郎自大な自己陶酔を観賞する物であり、出る杭が打たれる世知辛い現世で束の間見れるメルヘンにしてファンタジー。そもそも西洋史にはサッパリうとい私のような東洋の島国の異民族にとってアレキサンダー大王に感情移入出来る筈も無し。まして劇中の大王はマザコンでファザコンでホモで暴力中毒というややこしい人物。ストーンはハナから感情移入など想定してないのだ。開巻、伝記映画の常道としてまずはヨボヨボの語り部が登場。観客に偉人の人生を説明し始める。そして主人公の少年時代。こましゃっくれた子役が演ずる幸福とトラウマ。この辺までの運びは至極オーソドックスで「ストーンどうしたの?」と思わせる。ただ少年大王が帝王学としてレスリングや乗馬、剣術なんかを習う一環でなんとあの史上の大哲人アリストテレスからじきじきに「愛」について講義を受けるシーンがあってそこが凄い。「女を求める肉欲の愛は純粋の愛ではない。プラトンの言う男同士の精神的な結びつきこそが至上の愛なのじゃ」とプラトニックラブ(=男同士の愛。高校の倫理の時間にやりましたね)について講釈たれる老人を尊敬のまなざしで見上げる少年大王。良く考えたらアリストテレスの説教シーンは映画史上初じゃないか?大王のホモ願望の萌芽として使われるこのシーンのデタラメなフルスイングぶりがまさに「歴史大作」の「歴史大作」たる所以。成長するにつれ女王と側室の対立や即位を巡る宮廷内のイザコザで父親と対立し始める若大王。とそこで冒頭の語り部ジジイが登場し、王の暗殺、20才にして国王に即位、中東への長征で当時権勢を誇ったペルシャ王国の属国を次々占領して行った事をなんと一気にセリフで説明!そこから一気にペルシャ王国を崩壊させたガウガメラでの合戦シーンに映画がワープしてしまう。これは多分上映時間が長いので観客が退屈しない様に前半に見せ場を持ってきたのであろう。そういや昔からストーン氏は「今の若いモンはMTVなんかでカット割の早い映像を見馴れてるから映画もテンポアップしないと観客にアピールしない」ってな主張をしてたよな。まあ彼がせっかちなのもあるんだろうけど。でここで観客お待ちかねの大群衆による合戦シーン。ここは今流行りの「プライベートライアン」風でもなく「ロードオブザリング」的CG風でもなく独自の味付けで結構な迫力。この戦闘で圧倒的な不利からペルシャ軍を負かして中東域を支配下に置く。日本人が掘っ立て小屋に住んで泥こねて茶碗作ってた時代からアイツら殺しあってたんだからまあ色んな意味で大したモンです。ペルシャの首都のバビロニアに意気揚揚と入城して人生の絶頂を味わう大王。王宮にはペルシャ王のハーレムがあり、ヨーロッパ人の大好きなアジアの美女がテンコ盛り。戦場疲れマラも手伝ってグッと股間の堅くなる一行。普通の歴史大作ならここで酒池肉林の宴会シーンとなるのだが、なんせこの大王はホモなのでハーレムに一人だけいた美青年に一目で惚れてしまい女のケツをおっかける戦友を白眼視するばかりで映画も怒張せず。こっから先はただただ行く先々で、故郷に帰りたい戦友達とアジアを目指したい大王の揉め事とエキゾチックな宴会の数珠繋ぎ。旅先の偏狭の村で現地の娘を気まぐれで嫁にして内輪もめもピークに。長征はついに中東世界を越えてインドに至る。もういやだ田舎に帰るんだ!子供に会いたい!カミサンに会いたい!と里心がついてすっかり士気の下がった戦友たち。そこで大王が言い放つ「お前らはアジア世界とヨーロッパを融合するという理想を忘れて酒食肉欲におぼれてとうに堕落してるじゃないか!今更甘っちょろいこというな!」と。まあ確かに侵略の限りをつくしといて飽きたから帰りたいって言うのはワガママで、大王の言ってる事にも一利あるんだがしかし、その底には「俺はお前らと違うもんね」という思い上がりが透けて見える。そしてそれは「男同士の愛=至上の愛」と言う幼少年期の説教が生きているがゆえのだ。大王だってやることやってんだろうに一方的に堕落者呼ばわりされて気勢の上がらぬ一同。しかしシブシブ進軍が始まる。そしてジャングルでの地元の部族との戦闘。象を駆り昼なお暗いジャングルから奇襲を行う現地部族に苦戦する疲弊しきった大王軍は「プラトーン」のアメリカ軍の様に消耗して行く。がその中で大王の目だけが突如ギラギラと光り始める。仲間にももはや見放され、夢の途上で敗色が濃くなって追い詰められた男の最後の執念がついに爆発。ここで少年時代から連れ添った愛馬の背中で白目をむいて絶叫し象に乗った敵将に向かって捨て身の特攻!このシーンで初めて映画は大爆発。コリン・ファレルも壮絶な名演技を見せる。これまでのグダグダも全てこのシーンの為に会ったのか?さすがオリバー・ストーン、こんな超大作にもキッチリと自分の色を刻印した。このインドでの戦闘シーンだけでも、自分的には料金分の価値はある作品。結局戦場にいる事自体が目的で、高邁な理想は二の次だった男の話。ストーンは「自分が何故映画を撮るのか」という解けない謎と格闘するために何度でも映画という戦場に帰ってくる自分を、理由の無い情熱に突き動かされて闇雲に特攻する大王に重ね合わせたのでは。大王は揉め事ばっかりの故郷から逃げ出して在りもしない理想郷を探していたタダの傍迷惑な男かもしれない。でもなんであんな長征をしたかなんて結局誰にも合理的説明なんて出来ないのでは?人が言うほどヒドイ映画とは思いませんでした
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前立腺ガンを切除して入院中の叔父を見舞いに和歌山の某都市の病院へ。この叔父さんは生物学者なんだが、かつてTV番組であの矢追純一さんと「宇宙に知的生命体はいるのか」というテーマで対論した事もあるというウチの親戚の中では破格に面白い人。30年ほど前に胃がんで胃を八割くらい切除しており、ガンを切るのも今回が二度目。そんな訳でもともと食が細い上に御高齢であられるし手術疲れもあってかかなりやせてたが、幸い早期発見で手術も成功、転移も無いということで一安心。映画の日だったので大阪にもどって「マシニスト」。自分はずっと「マニシスト」だと思ってたのだが映画が始まる前に映画館の従業員のオネエちゃんが「間もなくマシニストの上映を開始します」と言ってるのを聞いて初めて間違いに気付く。ああさっきチケット買う時「マニシスト」って言ってもうたなあそう言えば。ハズカシ。クリスチャン・ベールの激痩せ役作りのみが話題の本作ですが見てみたらほんとにそこしか見所が無い!この監督の前作「セッション9」(違法治療で廃院になった精神病院のアスベスト処理に来た解体業者が徐々に狂気に苛まれて行くという内容)もそうだが「現実と妄想との区別がつかなくなる」というお話もそろそろ食傷気味ではあるし。それ以上に問題なのはこの映画ストーリーが塚本晋也さんの「鉄男」と一緒じゃないですか皆さん?体が鉄に変化する替わりに不眠症でやせて行くという違い。何故プロの映画ライターが誰も指摘してないのか不思議。パクリか偶然かは知らないけどね。ただ「セッション9」も本作も主人公がブルーカラーというとこは変わってると言えば変わってるなあ。本作の主人公は機械工。だから「マシニスト」なのか。ブルーカラーにとっての恐怖は労働災害と貧乏。自分もブルーカラーだから、劇中マイケル・アイアンサイド(!)が機械に巻き込まれるシーンは最高に恐かったし、電気代を滞納して電気止められた主人公がランプで暮らすシーンは身につまされた。帰りにガス代と電気代払っときました。
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およそ十五年前バブルがはじけかけてた頃、大学生として京都で一人暮ししてた自分は、大学で映画サークルに入って自主映画を作ったりしてた。ある日そのサークルの部室に、京都の劇団と言うかパフォーマンス集団と言うか舞台をやってる人達が、新人を募集する合宿のチラシを持って宣伝に現れた。自分はその時不在だったが、その人達は「記録のビデオを撮ってくれる人とかも募集しています」と言い残していったと聞いて、彼らが共同生活している稽古場に電話して、彼らの公演や合宿を手伝うようになった。実際には、映像を撮るよりも公演の裏方や雑用をする事の方が多かったのだが、自分としては同世代の大学生と付き合っているよりアナーキーな日常を送っている彼らといる方がとにかく楽しくヒマさえあれば稽古場に入り浸っていた様に思う。その彼らの稽古場があったのが、「パッチギ」の劇中主人公が何度も歩きや自転車で河をわたる東山橋のあたり。京都には都合6年くらい住んでたがほとんどあの辺をウロウロしてように思う。彼らに打ち上げで連れて行ってもらった九条河原町のホルモン焼き屋で、初めてマッコリ(シロという)飲みながら生レバーやホルモン焼きを食った時は「世の中にはこんなうまいもんががあるのか」と感動のあまり飲み過ぎ、映画の主人公の様にベロベロに酔いつぶれた。あれは酔いが回ると足腰がヘロヘロになるのだ。
「パッチギ」は内容的にも勿論傑作ですが、この北朝鮮批判が渦巻く御時世に敢えてこのテーマで映画を作ってヒットさせた井筒監督のマイケル・ムーアすら凌駕する映画脳にも感服することしきり。「北朝鮮と合作映画作る」とアホなこと言ってた山田洋次にゃ、社会的弱者の象徴として在日朝鮮人が出てくる「学校」は撮れてもこれは撮れまい。この映画、キャスティングが素晴らしく皆はまっているのだが、中でも朝鮮高校の番長でヒロインの兄という役を演じた高岡蒼佑(K-1の魔裟斗とサッカーの大久保を足して二で割ったような悪たれ顔)が抜群に印象的。映画冒頭、修学旅行生とのケンカに駆けつけるシーンの走りっぷりのカッコ良いこと。朝鮮人の解体屋のオッサンという役をやってた前田吟も最高!関西弁ウマ過ぎ。主人公が映画館で見るポルノが「女体の神秘」だったり、密入国者の名前がキム・イルだったり細部まで魂の入ったお遊びも楽しい。ところで朝高の不良の一人(前田吟の息子役)が包茎について劇中ずっと悶々と悩んでたのだが、これは河がテーマだから「かわ」繋がりなのかな?そりゃないか。
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去年バイトでバブル景気で狂躁状態の上海に行った時のこと、現地でコーディネイターというか通訳兼様々な御世話をしてくれたSさんという中国人がいた。Sさんは日本語堪能で、日本企業の現地会社で日々激務をこなすモーレツ社員であった。一週間の現場も無事終わり打ち上げがてらの食事の席で私が「上海にチャウ・シンチ-の新作の撮影とかやってるでっかい撮影所があるって聞いたのですがどの辺ですか?」と聞くと「ああズーっと田舎の方ですよ。小倉さんは映画好きなの?」と話題は映画に。その時同席してたSさんの会社の社長(日本人)が「(チャン・イーモウの)『英雄‐HERO‐』の撮影も上海のウチの工場の裏山の竹やぶで・・・」と話始めるやいなや、なんとSさんは「ああ!あのくっだらない映画ね!」と上司の話の腰を思いっきり折りつつ『英雄‐HERO‐』を熱っぽい語り口で全否定するではないか!自分も『英雄‐HERO‐』ははっきりと大キライな映画なので「あれはなんか説教臭くてヒドイ映画でしたねえ」と賛同すると「そうそうアレはいけません!映画は楽しいのが一番です!」と力強く言いきるSさん。チャン・イーモウが欧米人や日本人が喜びそうなエキゾチシズムを全開にしつつ中国政府や中国人にも「中国ってこんな偉大な国なんだよ‐ん」とオベッカを使いまくったあの映画もSさんのハートには全く響いていない様であった。あの映画は作品の成り立ちからして大傑作「グリーン・ディステニー」の二番煎じという志の低い作品だと思うのだが公開当時日本では「黒澤を思わせる」(だからなんやねん)なんて結構好評に迎えられてた。十数年前「紅いコーリャン」を劇場で見た時は、上映が終わってクレジットが流れ始めた途端、中途半端な長髪にヒゲ面の見るからに左翼オヤジが一人で予定調和的なスタンディングオベーションを始めて大層ビックリしたっけ。あの時日本軍の暴虐を告発する「紅いコーリャン」に拍手してたあのオジさんはチャン・イーモウが赤い色が好きなロリコンで「中国って偉大な国だぜ‐」と国民に愛国をアジる映画監督だと知ってるかなあ?とここで本題の「カンフーハッスル」遅れ馳せながらやっと見てきました。原題「功夫」の看板に偽り無しで全編ひたすら達人と達人の対決が数珠繋ぎ。ヒネッた、シブさをねらったような小賢しいところは微塵も無い良く考えたら今時珍しい直球勝負の娯楽大作映画。最初っから映画祭の賞なんか狙ってない。狙ってるのは観客のゼニとハートだけ。そういやこの映画に登場する達人達も神秘のカケラも無い人ばかり。究極の達人はステテコにゴムのサンダル姿だし。達人はエラぶらないということか。
以前テレビで古武術家の甲野善紀センセイが「江戸時代に江戸‐仙台間を八時間で走破した記録がある」と言う話をしてた時、聞き手のアナウンサーが「え‐ホントですか」的リアクションをとった。すると甲野先生は「歴史に残る達人の技術というのは現代人の想像の範囲を越えた物のはず。私はこの記録を事実だと思います。」と断言しておられた。達人に不可能無し!そうなるとこの映画のコピー「ありえねー!」っていうのは所詮現代人の浅知恵に由来する感覚なのか。実は達人にはアレぐらい当然なのかも。死んだ恋人や配偶者があの世から帰ってくる映画のほうがよっぽど「ありえねー」と自分も思うけど。Sさんなら「カンフーハッスル」をなんと言うかなあ・・・。
あっ!あとTVスポットで流れてる「カンフーファイティング」は劇中流れません!
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およそ十五年前京都で一人暮らししてた学生時代、現在郵政民営化で揺れる郵便局で夜中に手紙を手作業で区分するバイトをしてた。徴兵帰りの韓国人留学生や遊び過ぎて呉服屋を潰した若旦那、京大生とかが渾然一体となって働くヘンな職場だった。その中に常にセットで入ってるデッカイ二人組みのバンドマンがいた。話によると兄弟だと言うがいつも二人で仲良く談笑していて「なんて仲のいい兄弟だ」と驚いた。ウチの兄弟(男3人)は兄による軍事独裁支配体制だったので羨ましかった。休憩時間に話をしてみると弟のまあちんは同世代でブルースリーのモノマネ映画をホームビデオで作ったり、「空手バカ一代」に影響されて極真をはじめたりするような昭和40年代生まれの正しい青春を歩んできた男。映画や音楽や色んな話をしては、頭でっかちな中高時代を送った自分とは対照的なアクティブな男の姿に直視出来ないほどの眩しさを感じたものである。いっしょに当時まあちんがやってたバンドのビデオを作ったり、自分の自主映画の上映会でコミックバンドをやってもらったことも。が大学卒業と同時に、自分は郵便局をやめこちらも最近何かと話題のダイエーの食肉倉庫に勤め先を変えそれから会う事も無くなっていた。2・3年前思い立って当時のバンド名で検索をかけてみるとまあちんの名前を発見。今もバンド名を変えて元気に音楽している様だ。それからまた連絡を取り合って今自分が作ってるビデオを送ったり彼のバンドのBBSに書きこんだりして細々と交流してきたがついに彼らのライブを見ることが出来た。会場の難波のベアーズに入って見るとゴシックのイベントということでステージの前にはドクロが並びスピーカーからは骨格標本がぶら下がってる。この骨格標本は固定が甘く何度もバッタリと倒れ、その度親切なお客さんが助け起こして固定しなおしており、退廃的な中にもアットホームな雰囲気が漂う。まあちんのバンドJET PEPPER TOWERの出番は2番目。まずは仮面ライダーV3の主題歌の超高速サンプルループと爆音の打ちこみバックに絶叫するモヒカン青年のライブを観賞。こう言う好感度に一切頓着しない音楽を聞くのは結構久しぶりだが全くすがすがしい気分。本人のツブシの効かない感じ(マア実際には外資系広告代理店勤務かもしれないが多分そんなことはない)も輝いていた。休憩があって会場もイイ感じで埋まったとこでまあちんが登場。彼らの音楽はまあなんというかパンク・ニューウエイブというかダークサイケというかジャンク系と言うか生活賛美ポップス全盛の現今では余り省みられる事の無い音楽だが、趣味嗜好を超えた複雑な感情表現の乗った、年相応の年輪を感じる音楽で、懐古的・様式美的な所は無く、凶々しく生々しい現代の音であった。最初観客の雰囲気はアウェイぽかったがジワジワと盛り上げて最後にはちゃんと掴んでた。色んな意味でやり続けてる人間は強いなあと感じることしきり。ライブが終わってまあちんと客席にいたまあちんのお兄さんに挨拶してしみじみと帰宅。JET PEPPER TOWERというバンド名は、勿論ブルース・リー好きのまあちんが「死亡遊戯」から命名したんだろうけど、バンドを辞めずに塔を上がって来たまあちんの姿はさしずめ「生存遊戯」と言った所か。自分も自分のやってることに飽きずに生きようと思いなおした夜でありました。
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ですが今日は『END OF THE CENTURY』というラモーンズの伝記映画を今見てきました。自分ラモーンズについてはCD1枚持ってない、ライブも見た事ない、『ロックンロールハイスクール』も見てない完璧な門外漢。皮ジャン来て全員ラモーン姓を名乗ってると言う程度の予備知識。恐いアウトロ-の皆さんで一杯だったらどうしようとビビりながら映画館に踏み込むと、男子千円均一のサービスデーなので男だらけなものの、お客さんはみんな文科系の優しそうな人ばかりで一安心。映画はオーソドックスなヒストリーもの。ニューヨーク、クイーンズの一角でストゥ-ジズやニューヨークドールズが好きな街のハミダシ者が集まり好きなバンドの追っかけでは飽き足らず自分達もバンドを始める。ラモーンズの由来はボーカルのジョーイがラモーン(ポール・マッカートニーの初期の芸名らしい)を名乗ってたので全員それに倣ったとのこと。ジョーイは強迫神経症で精神病院に入っていた事もある繊細で心優しき巨漢。ザンギリ頭と皮ジャンというバンドのファッションを決定したのはギターのジョニ-。20歳の時近所をブラブラしている時に「オマエこれからどうすんだ?」てな神の声を聞いて、それから家に飛んで帰って以後の人生の計画表を一息で書き上げたという島田紳助張りのエピソードを真顔で語る。ジョニーがメンバーの私生活やバンドのビジネス面を厳しく管理してバンドを前進させて行く。ジョーイは心優しきヒッピータイプで、ジョニーは「60年(の大統領選挙)はニクソン支持だった」というような共和党シンパの保守。もう一人の重要なオリジナルメンバーはベースのディーディー。彼こそがイメージ通りのパンクスで野放図なボヘミアンだがソングライティングでバンドを支える。CBGBなどを皮切りに地元ニューヨークでライブを重ね名前を売り、イギリスをツアー。彼らがライブした街には雨後のタケノコの様にパンクバンドができる。嬉々としてラモーンズ体験を語るジョー・ストラマーやグレン・マトロックのインタビューも。しかしピストルズを筆頭にロンドンパンクのバンドがアメリカでブレイクしたにも関わらずオリジネイターの彼らは不遇。いつまで経ってもバンでライブハウスを巡る日々。マネジャーも「ロンドンではローディーでもマネジャーでも女の子が入れ食いだったけどアメリカじゃサッパリだ」と嘆き節。起死回生策としてフィル・スペクターをプロデューサーに迎えてアルバム制作するも彼は昔日の彼でなくスッカリポンコツになっていてセールスも伸びず。この時ジョニーはブレイクをあきらめアングラ道を行く決意を固めたと告白。バンドの人間関係もギクシャクしまずドラムのトミーが脱退。ディーディーは「ヤツのバンドに対する貢献なんかなんもない。ただいい時にいい場所にいただけだ」とにべもない。が「ヤツにも良いとこは有るんだぜ」とフォローするから何かと思えば「奴は自分で食材を買ってきてハンバーガーとか作るんだ。21の男にしたらスゴイよ」とトンチンカンな賛辞をぶつけるんだからスゴイ。ディーディーは他にもRUN DMCに感化されてラッパー(芸名はディーディーキング)になったりとにかく面白い男。一方ジョーイとジョニーは一人の女を取り合い、結果彼女はジョニーと結婚し怒ったジョーイは「The KKK took my baby away」という曲を作る。勿論「KKK」呼ばわりされたのはジョニー。しかしそれを実際曲にしてステージでやってしまうラモーンズ。「スキャンダルをビジネスに転化出来なければ経営者失格」と言う猪木イズム。良い事も悪い事も全部ネタにして前進する彼らだったがついに活動休止を発表。その直後ジョーイがガンに倒れ闘病の果てに他界。メンバー各人のコメントは苦い。ただ新参メンバーのCJのナイスガイ振りと現役のミュージシャン達(ソニックユース、メタリカ、ホワイトゾンビ、RHCP)達から浴びせられる賛辞が救いか。2002年のロックの殿堂の授賞式に集まったメンバーの様子で映画は終わる。
この映画の不満な点は彼らのショーマンシップ、サービス精神がどこから来てるのかと言う検証が無い所。バカな事を真剣にやる男の姿というのは眩しいもんです。そんな彼らの能天気な面ももっと見たかった。けどいい映画だと思います。
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